野球の世界において、中日ドラゴンズは歴史的な存在として輝いています。その栄光と挫折、偉大な選手たちの物語が、プロ野球愛好家にとって半端じゃない球団紹介コンテンツです。
中日ドラゴンズとは、ただのプロ野球チームではありません。この記事では、中日ドラゴンズの球団紹介すると同時に以下のメリットが得られます。
1.野球の魔法: 中日ドラゴンズの歴史を通じて、野球の魅力を深く理解し、野球への情熱を再燃させます。
2.偉大な選手たちの物語: 星野仙一、山本昌、岩瀬仁紀など、伝説の選手たちの物語を通じて、彼らの努力と栄光を共に感じます。
3.中日ドラゴンズファンとの共感: 中日ファンとしての誇りと共感を持ち、球団へのサポートをさらに強化します。
4.スポーツの教訓: 中日ドラゴンズの歴史は、困難を乗り越える力強い教訓を提供します。野球以外の人生においても応用できる価値ある教えがあります。
この記事を通じて、中日ドラゴンズの魅力と歴史に触れ、野球愛好家やスポーツファンとしての新たな洞察を得られることでしょう。
ドラゴンズってどんな球団?
まずはドラゴンズがどんな球団なのか、ファンではない人にも知ってもらえるように紹介します。
所属リーグ | セ・リーグ |
本拠地 | バンテリンドームナゴヤ |
2軍グランド | ナゴヤ球場(名古屋市) |
キャンプ地 | 沖縄県北谷町(ちゃたんちょう) 沖縄県読谷村(よみたんそん) |
設立した年 | 1936年1月15日 |
運営している会社 | 株式会社中日ドラゴンズ |
創立86年と長い歴史のある球団です。これまでのドラゴンズの歴史は今でもファンに語り継がれています。球団の親会社は(株)中日新聞社です。
中日新聞社は一般紙、スポーツ紙と週刊誌合わせて7紙を発行しています。業界の3本の指に入る大企業です。そんな会社のグループ企業として中日ドラゴンズを運営しています。
年表からみる球団の歴史
次は86年の長い歴史と伝統のある中日ドラゴンズのこれまでのあゆみを振り返ります。
名古屋軍 1936年〜1943年
元々は現在の日本プロ野球機構ではなく、大日本野球連盟という独自の組織を結成させていました。しかし、日本職業野球連盟(現在のNPB)に合流することになります。
チーム結成当初は主力となる選手がわずか1年でチームを去るなどで成績不振と長期に渡る選手不足に陥ってしまいます。
そんな状況下でもノーヒットノーランを達成するなど実力のある選手が在籍していたがチームの総合力では巨人や阪神に力及ばなかった。
産業軍 1944年〜1945年
チーム名の変更の背景は当時は戦時中で地元のライバル新聞社と合併した。
合併による人件費の増大により球団への資金繰りが難しくなってしまう。球団を別会社のグループ企業の傘下に入れて選手を移籍させて何とか繋ぎ止めた。
運営する母体が別会社に変わったことで運営方針が変わった。選手も工場で働き、その傍らで試合を行っていた。多くの兵士が戦争に駆り出され戦争の犠牲者となっています。
中部日本 1946年
戦争が終わり、球団数が8球団と拡大された。球団初となるショートを守る選手兼監督が誕生した。
中日ドラゴンズ 1947年〜1950年
チーム名変更の背景は連盟から各球団にニックネームの導入の申し入れがあった。
当時、選手兼監督が辰年生まれだったことから辰を英訳して「ドラゴン」を採用し中日ドラゴンズに決定した。
チームは主力選手の退団に伴い、慕う選手ら合計11人がチームを退団した。戦後ようやくチームの再建してきたチームは再び低迷する。1948年は球団ワーストのシーズン83敗を喫する。
1950年からセ・リーグ8球団、パ・リーグ7球団の2リーグ制を採用する。
球団最多となるシーズン89勝を挙げるも2位でシーズンを終える。
名古屋ドラゴンズ 1951年〜1953年
中日新聞社だけではなく、名古屋鉄道が球団経営に参加することになり、チーム名を変更する。チーム名変更後の1年目は惜しくも2位でシーズンを終える。
1952年シーズンはシーズン3位で終わるも選手個人では素晴らしい成績を残した。
- 山﨑善平が1試合6盗塁を記録(日本記録)
- 西沢道夫が首位打者と打点王に杉山悟がホームラン王に輝きチームで三冠王を独占した
しかし、晩年3位、2位を行き来しAクラスに居続けるも一度もリーグ優勝はできなかった。
中日ドラゴンズ 1954年〜2023年
名古屋鉄道が球団経営から撤退することになり、中日ドラゴンズに戻した。
1954年にチームで三冠王を独占した選手らが主力となり、創設18年目にして初のリーグ優勝を飾る。日本シリーズでは最終戦までもつれ込み4勝3敗で初の日本一に輝いた。しかし、この年以外、リーグ優勝して日本一を飾ることなく、唯一リーグ優勝、日本一を同時に取ることができたシーズンだった。
1963年シーズンは全チームにシーズン勝ち越したものの、首位巨人と2.5ゲーム差で2位に終わるという前代未聞の事態が起こった。
1974年は球団経営していた会社が経営不振で本拠地が消失が危うい危機に陥った。
チームは巨人キラーこと星野仙一を筆頭に主力選手の活躍によりそれまで9年連続リーグ優勝した巨人の10連覇を阻止し20年ぶり2回目のリーグ優勝を飾った。
- 星野仙一はセ・リーグ初のセーブ王と沢村賞を受賞
- 松本幸行は最多勝と最優秀勝率の2冠に輝いた
1982年シーズンは星野らベテラン層に変わり若手が起用されチームの血を入れ替えた。シーズン後半で巨人と優勝争いになる。日本記録になるシーズン戦で19試合引き分けがあった。シーズン終盤2位でマジック点灯した。
シーズン最終戦まで決着がつかず最終戦の大洋ホエールズヌートバーの試合で勝てば優勝、負けた巨人が優勝が決まる天王山で見事完封勝利で8年ぶり3度目のリーグ優勝に輝いた。
1987年シーズンは星野仙一が監督を務める。このシーズンからロサンゼルス・ドジャースとの提携でユニホームをドジャース風に変更された。
闘将に率いられたチームは新人投手がプロ登板初にして巨人相手にノーヒットノーランを達成した。
翌年には前半戦で借金2を作り負け越すも後半戦から怒涛の反撃を見せ4度目の優勝に輝き、昭和最後のセ・リーグ優勝球団になった。
1991年まで星野監督が指揮を執ったのちに再び1996年に監督に就任する。1999年はプロ野球タイ記録となる11連勝を記録した。
山本昌や川上憲伸の先発陣に加え新人ながらも守護神を任された岩瀬仁紀などの投手陣の好調で12球団随一の投手王国を誇った。その投手陣を筆頭に11年ぶり5度目のリーグ優勝を果たした。しかし、日本シリーズでは投打で噛み合わず日本一を逃す。
2004年から落合博満が監督に就任する。一時は最下位に転落するも中盤戦から立ち直り、首位に浮上する。6月には7連勝を記録しその勢いのままシーズンを走り切り5年ぶりのリーグ優勝を果たした。
「アライバコンビ」を筆頭にリーグ記録にもなった45失策の堅い守備と12球団トップの投手陣が強みだった。
2006年シーズンは投打で噛み合い6月から首位を独走する。球団史上最速となる8月12日にマジック40を点灯させる。一度も首位の座を譲ることなく、セ・リーグ全球団に勝ち越して完全優勝を飾った。このシーズンは個人タイトルの多くをドラゴンズが牛耳った。
- 川上憲伸 最多勝と最多奪三振
- 岩瀬仁紀 最多セーブ
- 福留孝介 首位打者とMVP
- ウッズ ホームラン王と打点王
2007年シーズンは主力選手の戦線離脱や大事な試合で勝利を逃すなどの要因で2位に終わる。クライマックスシリーズで阪神に2連勝、ファイナルステージで巨人に3連勝をし2年連続の日本シリーズへ。相手は前年敗れた日本ハムを相手に4勝1敗で53年ぶり2度目の日本一を達成した。1954年以来となる。
2010年シーズンは打率、得点数12球団中11位と打力に欠けていたものの、12球団随一の投手力と守備力でリーグ優勝を果たした。さらに続く11年シーズンでも打率、得点数はリーグワーストにも関わらず球団史上初となる2年連続のリーグ優勝を飾った。
2011年 | 岩瀬仁紀が日本新記録の287セーブを挙げる |
2013年 | 谷繁元信が選手兼監督に就任した |
2014年 | 岩瀬仁紀が前人未到の400セーブを達成した 山本昌が史上最年長勝利投手記録(48歳4ヶ月)など最年長記録を更新した |
2015年 | 和田一浩が2000本安打を達成した。 谷繁元信が選手権監督で日本記録の通算3018試合出場する |
2017年 | 荒木雅博が2000本安打達成した 岩瀬仁紀が950試合登板を達成した 京田陽太が140本安打で球団の新人記録を更新した 浅尾拓也が200ホールドを達成した |
2018年 | 岩瀬仁紀が前人未到の1000試合に登板した 大島洋平と平田良介がゴールデングラブ賞を受賞 |
2019年 | 大野雄大がノーヒットノーランを達成した |
2020年 | 大野雄大が5連続完投勝利と45イニング連続無失点を記録 大島洋平が1500本安打を達成する |
2021年 | 大野雄大が通算1000奪三振を達成する 福留孝介が44歳と4ヶ月で球団最年長ホームランを放つ 史上54人目の2000試合を達成する |
2022年 | 大島洋平が250盗塁を達成する。1試合6安打をマークする 谷元圭介が通算500試合登板を達成する |
2023年 | 大島洋平が2000本安打を達成する |
ここ10年のドラゴンズの戦績を振り返るとファンの方は「あ〜、そんなこともあったな」と懐かしい気持ちになると思います。
ドラゴンズの強みは投手力を核にした守備力です。1点を守り抜く野球ができている時にチームの力を発揮しています。リーグ最下位の打率と得点でも優勝できることを証明しています。
ファンなら知らないと恥ずかしい出来ごと
ここからはわたしから中日ドラゴンズファンならこのこの歴史だけは知っておいて欲しい!という出来事を厳選しご紹介します。もはやこれを知らずファンは語れないと思った方がいいです!
1950年代から1970年代にかけて、中日は黄金時代を迎え、星野仙一、荒木大輔、岩瀬仁紀などのレジェンド選手が多くのファンに愛されました。その時代の栄光は今もなおファンの心に生き続けています。
球界随一の悪あがき!史上最年長勝利投手
球団の歴史の中でも度々名前が上がった山本昌投手。プロフィールは以下の通り。
- 山本昌(本名・山本昌広)
- 東京都大田区生まれ
- 日大藤沢高校出身
- ドラフト5位で入団
- 半ば戦力外状態でアメリカへ野球留学へ
- プロ入り数年間は常に”クビ”の瀬戸際にいた
- 通算200勝うち79試合完投勝利、30試合が完封勝利
- 2310奪三振を記録
- 史上最長となる32年間現役生活を送る
中学時代まで控え投手でそこから山本昌の活躍で部を始めての県大会に導き高校では神奈川選抜に選ばれアメリカ選抜相手に圧巻のピッチングでプロの目に止まった。
球界一速い130キロと呼ばれたストレートで50歳まで現役を続けた伝説の左腕です。”最年長”と言われる記録数多く更新してきた。
山本昌の球種は130キロ台のストレート、左バッターの膝下に落ちるスクリュー、カーブ、スライダー。140キロを投げれるようになったのは43歳のときだったそうだ。そんな平凡な投手がなぜプロの第一線で大成したのか?
プロ入り後は全く登板機会がなく星野監督からドジャースに野球留学へ派遣され留学で自身の代名詞でもあるスクリューを習得して日本に戻ってきます。
再びアメリカに戻り次はスローカーブを習得します。
その後は2年連続の2桁勝利を挙げ、沢村賞を受賞するなど球界に名を轟かせていきます。なぜ32年間もマウンドに上がり続けて結果を残すことができたか。
自身の名言には準備を誰よりもして一生懸命取り組んだことだと言ってます。数少ないチャンスで結果を残してきたからこそ32年間も現役を続けてこれたのです。
前人未到の鉄人左腕
お次は1000試合に登板した前人未到の鉄人、岩瀬仁紀投手です。プロフィールは以下の通り。
- 岩瀬仁紀(いわせひとき)
- 愛知県西尾市出身
- 西尾東高校-愛知大学-NTT東海
- 逆指名で中日ドラゴンズへ2位で入団
- 最多登板、最多セーブ記録保持者
- ルーキーイヤーから15年連続で50試合以上に登板してきた
次々とバッターを打ち取ることと背番号が13番はタロットカードでは13は死神を暗示することもあり、死神の異名をもつ守護神です。
投球スタイルは球界屈指の呼び声高いスライダーでバッターをの膝下へ投げ込んでいく。最速149キロのストレートもある。ストレートがムーヴィング・ファストボールで本人は意識していないがボールがナチュラルに動く。変幻自在の球種は以下の通り。
- ストレート(ムーヴィング・ファストボール)
- スライダー
- カーブ
- ナックルカーブ
- シュート
- シンカー
- カットボール
現役19年間で1002試合に登板し407セーブを上げた。841奪三振を記録している。入団当初は中継ぎとして登板したが、落合博満が監督に就任すると抑えに転向。
抑えを任された翌年には自己最多となる46セーブを挙げた。引退する18年シーズンまで絶対的信頼を集め守護神として君臨してきた。
鉄壁の二遊間アライバコンビ
中日ドラゴンズの守備力の象徴だったと言える二遊間。セカンド荒木雅博とショート井端弘和。
もともと荒木は外野手だったが、監督が変わったことで内野にコンバートされセカンドのレギュラーに定着した。アライバコンビは誕生して2001年から2013年まで12シーズンに渡って鉄壁の守備を築いてきた。
守備だけではなく打順でも「1番・荒木 2番・井端」」でクリーンアップに繋いで得点をとる1、2番コンビとしても役割を果たしてきた。
二遊間の守備率は数字で物語っている。守備率とは打球がとんできた時のアウトした数とエラーの数を割ったものです。アライバコンビはなんと99%を記録しており、二遊間に打球が飛んだらほぼ100%アウトになる割合の数字です。愛知の守りに鉄壁を築き上げた。
古参球団の意地〜球団の成功と栄光〜
ドラゴンズの球団としての成功と栄光について振り返ります。80年以上続く球団の歴史は長く、しかし順風満帆の歴史を歩んできたわけではありませんでした。経営している会社の球団が経営不振に陥り一時はホーム球場を失いかけた時もありました。
晩年Aクラスに居続けたのにも関わらず遠かった初優勝までの長い道のり。そこからリーグ優勝、日本一と遠ざかりBクラスに落ちても、這い上がってきたドラゴンズの歴史をご覧ください。
球団崩壊を救ったリーグ優勝
1974年は球団経営していた会社が経営不振で本拠地が消失が危うい危機に陥った。球団経営者が自殺するなどの訃報もあり、チームには暗い雰囲気が漂っていた。
そんなチーム状況下でもチームを牽引してきたのは燃える闘将星野仙一を始めとする投手陣だった。
チームは巨人キラーこと星野仙一を筆頭に主力選手の活躍によりそれまで9年連続リーグ優勝した巨人の10連覇を阻止し20年ぶり2回目のリーグ優勝を飾った。
- 星野仙一はセ・リーグ初のセーブ王と沢村賞を受賞
- 松本幸行は最多勝と最優秀勝率の2冠に輝いた
球団会社が不景気に陥っている中でもチームが勇気づけてきたのは間違いないだろう。
一味違う名将が導いた日本一
1954年に日本一に輝いてから遠のいてきた日本一を奪還するために指揮を任されたのは落合博満だった。
落合は2004年から監督に就任すると1年目から監督の手腕を発揮する。シーズン前半で最下位だったところから首位に浮上しリーグ優勝に導いた。5年ぶりのリーグ優勝だった。
落合監督はヤクルトで監督を務めた野村克也などとは一味違い、野球スタイルは昭和だった。
キャンプでは選手がへばるまでバッティング練習を行ったり、朝から晩まで練習と長時間練習をしてきた。
ただ、感情で物申すことはなくいつも冷静沈着だった。
2004年から落合博満が監督に就任する。一時は最下位に転落するも中盤戦から立ち直り、首位に浮上する。
6月には7連勝を記録しその勢いのままシーズンを走り切り5年ぶりのリーグ優勝を果たした。「アライバコンビ」を筆頭にリーグ記録にもなった45失策の堅い守備と12球団トップの投手陣が強みだった。
2006年シーズンは投打で噛み合い6月から首位を独走する。球団史上最速となる8月12日にマジック40を点灯させる。一度も首位の座を譲ることなく、セ・リーグ全球団に勝ち越して完全優勝を飾った。
2007年シーズンは53年ぶり2度目の日本一を達成した。
落合が監督に就任してからの8年全てAクラス入りし4度のリーグ優勝に導き一時の常勝軍団を作り上げた。勝つことだけを貫いてきた証が結果につながっている。
球団カルチャーとファン愛
球団は野球だけではなく、子どもたちの憧れでもある選手たちとの交流や協力も大事にしています。シーズンオフになると地元の地域に選手が出向いたりすることがあります。ここではドラゴンズ独自の文化やファンとの交流について話します。
選手による野球観戦プロジェクト
大野雄大投手、柳裕也投手、福敬登選手、谷元圭介選手より対象としたファンに年間数試合から数十試合バンテリンドームでの観戦を招待して野球観戦を楽しんでもらっています。
野球を本業としているので自分のプレーでご招待した皆様が少しでも勇気を与えることができたらという想いで活動を続けています。活動をスタートしてはや5年が経とうとしています。ご招待頂いたお客様が野球から少しでも勇気づけられたら本望だと思います。
地域を駆け回る訪問活動
ドラゴンズは直接足を運び実際の現場の方とお話をしたり触れ合うことを大事にしています。実際に足を運んで活動を行っているのは以下の通り。
- 病院
- 学校
- 野球教室
など東海地域の支えてくれるファンのために寄付活動や野球の復興支援に選手、球団が取り組んでいます。
人気No. 1マスコット!ドアラ
ドラゴンズを語る上で外せないのが球団マスコットのドアラです。12球団で最も人気のあるマスコットキャラクターです!ドアラ誕生は当時の広告代理店が「グランドでコミカルに演じるマスコットが必要だ!」との一声で誕生しました。
コアラをモチーフにしており、本拠地名古屋にコアラが日本で初めて来日したからです。マスコットながらSNSのフォロワー数は10万人声とインフルエンサー顔負けの支持をされている。
現在のチームと今後の展望
最後にドラゴンズのこれからについて話します。現在のチーム状況を把握した上で、今後の動向から誰が未来のドラゴンズを背負っていくのかを根拠をもとに解説していきます。
現在のチーム状況
2023年の成績は以下の通り。
順位 | 6位 |
勝率 | .406(6位) |
チーム打率 | .234(6位) |
防御率 | .3.08(2位) |
得点 | 390(6位) |
失点 | 498(3位) |
ここからわかることは
・打力に乏しい
・1点を守り抜くチーム
・圧倒的投手力、守備力が欠かせない
現在の中日ドラゴンズは、リーグ優勝から遠ざかる苦境にあります。最後のリーグ優勝は2011年で、その後はプレーオフ進出が難しく、低迷期にあります。この期間中、多くのベテラン選手が他のチームに移籍し、若手選手の台頭も難しい状況でした。
主力選手の紹介
投手
- 大野雄大
- 柳裕也
- 高橋宏人
今シーズン誰一人として2桁勝利を挙げることができなかったのが敗因として大きい。3月のWBCの決勝でも登板した高橋宏人の7勝がチームの勝ち頭ではリーグ戦で1チーム3試合ある中で2勝1敗で戦い抜くことはほぼ不可能だろう。東京五輪で日本代表だった大野やベテランの涌井など先発陣の勝ち星が物足りない。
野手
- 石川昴弥
- 大島洋平
- 岡林勇希
強いチームには絶対的エースと不動の4番が必要だ。今シーズン4番に座った石川選手の成績は4番として、主軸選手としても物足りない成績だった。中日といったら石川選手と思われるくらいの選手にならないとこのまま中心選手なきドラゴンズに優勝は難しい。今後のドラゴンズの将来を担っていくためにもリーグトップのプレーが求められる。
ドラフトから考える育成計画
過去3年で1位指名した選手は以下の通り
- 2020年・高橋宏人(投手)
- 2021年・アデゥ ブライト 健太(外野手)
- 2022年・仲地礼亜(投手)
高橋選手、仲地投手を筆頭に投手は即戦力でローテーション入りをしている。そして2023年のドラフトで指名された選手は以下の通り
- 草加勝 (投手)
- 津田啓史 (内野手)
- 辻本倫太郎 (内野手)
- 福田 幸之介(投手)
- 土生翔太 (投手)
- 加藤竜馬 (投手)
今シーズンは2桁勝利を挙げた投手がローテーションで一人もいないのは大問題だった。投手の再建を図るべく6人指名したうちの半分が投手だ。また大学、社会人の投手が2人指名されており、即戦力を期待しているのだろう。
2024年シーズンの展望
しかし、中日ドラゴンズは再建の努力を続けており、若手選手の育成に力を入れています。新たな監督やコーチ陣のもと、チームは将来に向けての布石を打つ試みをしています。また、ファンからの熱烈なサポートもかわらず受けており、その支えも力になっています。
現在の状況において、投手陣や野手陣の強化、戦術の改善などが求められていますが、中日ドラゴンズの歴史から分かるように、このチームは困難を克服してきました。今後もファンとともに、再び栄光の日をとりもどすことを期待しましょう。
まとめ
今回はドラゴンズファンに向けた球団紹介のコンテンツでした。この記事をきっかけにドラゴンズの歴史や今チームはどんな状況なのかを知ってもらえたと思います。今回のまとめをすると
・ドラゴンズは80年以上の歴史を持つ伝統ある球団
・ファンに覚えて欲しいのは、
1・現役32年史上最年長投手、山本昌
2・1000試合に登板した死神の守護神、岩瀬仁紀
3・鉄壁の二遊間1、2番コンビ、荒木雅博と井端弘和
・中日の優勝を語る上で外せない人物は冷静沈着の落合博満
ファンとの交流も盛んで、訪問活動や野球観戦の招待など野球復興支援に励んでいる。
中日ドラゴンズは長い歴史を持つNPBの球団で、黄金時代から現在の挑戦まで、その興奮と栄光に満ちた物語があります。この記事を通じて、中日ドラゴンズの歴史、現在の状況、そして野球愛好家としての楽しさを共有しました。中日ファンや野球愛好者にとって、これらの情報が新たな視点を提供し、魅力を再発見する手助けとなったことでしょう。
コメント