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野茂英雄のルーツと功績〜野球界のパイオニアに迫る〜

この記事では野球界の偉人について紹介するシリーズです。今回はプロ野球界のパイオニア、野茂英雄さんについてこれまでの功績や、今に至るまでの苦悩について話していきます。それでは早速本題に入っていきたいと思います。

プロフィール

  • 野茂英雄(のもひでお)
  • 1968年8月31日生まれ
  • 大阪府出身
  • 現在サンディエゴ・パドレスのアドバイザーを務めている

現役を退いた今でも、社会人野球チーム『NOMOベースボールクラブ』を設立。野球の発展に大きな貢献をされている。

野球経歴

少年〜中学時代

当時の野茂投手は全く無名の選手。ただ、この頃から「体を捻って投げると直球の威力が増す」ことを理解して実践していました。これが後の「トルネード投法」の原型となるフォームで投げていました。
地元の大阪の名門野球部のセレクションを複数トライするも全て不合格。大阪府立成城高校学校に進学します。

高校時代

2年生からチームのエースになる。夏の大会では2回戦で府立生野高校相手に完全試合を達成。
3年時は5回戦進出、ベスト16が最高成績。当時の投球フォームはトルネードほど拗らないがその面影を感じていた当時の監督は「つむじ風投法」と当時の野茂の投球フォームに名付けていたそうだ。

アマチュア時代

高校卒業後の進路はプロのからの誘いがあったが断り、新日本製鐵堺へ入社。当時の給料は額面で11万9000円。手取りで9万円ほどだったそうだ。

1年目

1年目はスライダーの習得に苦戦し、最大の武器となる「フォーク」を習得。これが後の野茂の投手人生で最大の武器となり三振の山を築いていくことになる。

2年目

2年目は都市対抗に出場するも、準々決勝敗退。同年にIBAFワールドカップの日本代表として出場する。

※IBAFワールドカップは1938年〜2011年まで開催されていた国際大会。国際野球連盟IBAFが主催となっていた大会。1994年までは出場選手の資格がアマチュア限定となっていた。1998年からプロ選手の出場も解禁することになった。同年のソウルオリンピックでは銀メダルに貢献。

3年目

2年連続で都市対抗に出場。惜しくも準決勝で敗退。同年、インターコンチネンタルカップに日本代表に選出。

※インターコンチネンタルカップは1973年に創設された大会。2011年には国際大会の編成の見直しにより大会が廃止。WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)を世界選手権の位置付けにして新たにWBSC プレミア12という大会を創設した。

名実ともに「アマチュアNo.1投手」と注目される投手にまで成長を遂げた。1989年ドラフト会議では史上最多となる8球団から1位指名の末、近鉄バッファローズに入団を決める。当時、市場初の契約金1億円台の1億2000万円。推定年俸は1200万で契約を結んだ。契約サインで野茂から”投球フォームを変更しない”という条項の元で契約を結んだのです。

近鉄バッファローズ時代

大きな期待を背負う中、野茂は1年目から期待に応えるピッチングを披露していく。

当時の日本記録に並ぶ1試合17奪三振でプロ初勝利を飾る。新人ながらもシーズンが終わり成績を見ると最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手四冠を独占。他にもベストナイン、新人王、沢村栄治賞、MVPに輝く。沢村賞はパ・リーグでは受賞者第一号の選手が野茂なのだ。それから数々の伝説を打ち立てていく。

2年目は6試合連続2桁奪三振
3年目には18勝をマーク
2年連続で最多勝、最多奪三振などのタイトルを獲得
4年目には5試合連続2桁奪三振を記録し、
史上初の新人から4年連続で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得。

球団・監督とのいざこざ

これだけの伝説を残してきた野茂投手。しかし、球団・監督とはうまくいってなかったのだ。4年目の契約更改では複数年契約、代理人公傷制度を希望したのに対して球団側は拒否。シーズン途中に肩を故障して後半戦を棒に振ったのが原因。

 また、年俸もあれだけの成績を残したのにも関わらず現状維持の金額を提示されたことにも大きな不満を抱いたという。監督とは入団時は仰木監督で野茂から出した条項を守ることを条件に契約を結んだが、鈴木監督に変わってしまい、育成方法や指導方法がガラリと変わってしまった。監督自身が投手で実績を挙げていただけにフォームや調整方法などで様々な面で干渉を起こしていた。

さらに野茂の成績に対してもネガティブな印象を持っており”三振の数は多いが四球が多いから今後通用しない。フォームを改造しないといけない。”と完全に野茂のトルネード投法を否定している。こうしたことが原因で対立するようになり球団を退団し、アメリカへと渡ることになったのだ。後に野茂は

「監督の難癖が嫌だった。メジャーで野球をやりたいと思ったのではなく、監督の下で野球をやれないと思ったから。」と話している。

メジャー時代

マイナー契約からスタートしたドジャース時代

近鉄を退団後はドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は980万円。近鉄時代の年俸は1億4000万。破格だったのことには違いない。それでも野茂は自分の納得する環境で野球をやりたかったに違いない。メジャーでは野茂を通用する選手と思っていなく、低く評価していたのだ。

1年目でノーヒットノーランを達成。

当時のピッチングはこちらから

メジャーのバッターにも三振の山を築き最多奪三振に輝く。これはアジア人史上初の偉業でもあります。リーグ最多の3完封をマークしチームを7年ぶりの地区優勝に貢献。

 日米では『NOMOマニア』という言葉が生まれるほどの人気を誇った。野茂はアメリカを渡り、「トルネード旋風」を巻き起こしたのです投手だけではなく、打者としても日本人メジャーリーガー初となる本塁打を記録しています。

低迷期となったメッツ

野茂がメジャーでプレーしたのをイメージすると誰しもがドジャースのユニホームを着てマウンドに立って投げていることをイメージすることが多いでしょう。しかし、野茂はドジャース以外にも複数の球団を渡り歩いていたのです。4年間ドジャースでプレーしたあと野茂は「環境を変えたい」と球団に意思表示をしてメッツに移籍します。

チームメイトにはドジャース時代でバッテリーを組んでいたキャッチャーと現・千葉ロッテの監督を務めている吉井理人がチームメイトにいました。移籍して3連勝を挙げるも不調に陥りシーズン通しての結果は6勝12敗と野茂の実力には遠のいた成績に終わった。シーズンオフには登録40人の枠から外れチームを退団します。

再びマイナー契約へ

メッツを退団後、シカゴ・カブスの傘下にあるマイナーチームとマイナー契約を結んだが3試合に登板しただけで自由契約となってしまった。

1ヶ月の間でマイナー→メジャー復帰へ

マイナー契約をしたその月にブルワーズと単年契約を結ぶ。この年にメジャー通算1000奪三振を達成しました。シーズンを終えると野茂はチームトップの12勝をマークしたのだ。

タイガース時代

翌年の2000年にデトロイト・タイガースと単年契約を結ぶ。

この年から新たにツーシーム、スライダーを習得しワインドアップで投げていたフォームをセットポジションに改良した。開幕戦では日本人初となる開幕投手を務め、見事勝利を飾った。しかし、前半戦を終えると右手の炎症で初の故障者リスト入りとなり8勝12敗でシーズンを終えた。

レッドソックス時代

翌年はボストン・レッドソックスと契約を結ぶ。

2001年シーズンでは2度目となるノーヒット・ノーランを達成。6月のブレーブス戦では日米通算2500奪三振を達成。01年シーズンは4年ぶり、自身2度目となる最多奪三振を獲得した。

ドジャース第二期時代

2002年には古巣・ドジャースに復帰。

日本からメジャー挑戦をした石井一久投手と共に入団会見を行った。02年シーズンではメジャー通算1500奪三振を記録。翌年、03年シーズンでは2度目となる開幕投手を務め完封勝利を収める。4月でメジャー通算100勝を達成。

 シーズン後半には肩の炎症があるものの故障者リスト入りをせずマウンドに上がり続けた。シーズン通してリーグ5位の16勝を挙げた。04年も球団と交渉し残留を決める。開幕投手を務めるも、シーズンオフに受けた手術から回復が遅れていたこともあり自己ワーストの10連敗を喫した。

この年がドジャース在籍最終年となった。

3度目のマイナー契約

05年は球団創設8年目のタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約日米通算200勝を達成。7月に解雇。解雇した翌日ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。06年シーズンはホワイトソックスとマイナー契約。

07年にはドミニカ共和国のプロ野球リーグに移籍。
08年はロイヤルズとマイナー契約。この年を最後に現役生活にピリオドを打つことになる。メジャー通算123勝は未だ破られていない成績。現役通算3122奪三振も野茂が立てた記録だ。

野茂のココが凄い!

野茂投手は現生活で数々の成績と伝説を打ち立てたのはこれまでの紹介でお分かり頂けたでしょう。
ここからは野茂投手の成績以外の凄いところを紹介していきます。

トルネード投法

野茂投手の代名詞でもある「トルネード投法」現代では見ることはない投法でしょう。
トルネード投法とは大きくる振りかぶるワインドアップポジションからリリースするまでの間に一旦背中を打者に向ける独特の投法のことをいいます。

 『ドクターK』のニックネームがつくほどの三振の山を築いてきた野茂投手ですが、体への負担が大きく、四死球が多かったのも事実です。なので、近鉄時代の監督の鈴木監督が「フォーム改造」を命じたのも一利あるでしょう。

 しかし、トルネード投法を貫いたからこそ野茂投手はメジャーでも活躍できたことでしょう。もし、フォームを改造していたら球団や監督との揉めることはなくメジャー挑戦もなかったのではないでしょうか?イチロー選手も打撃フォームを改造を命じられるも貫き通したからこそあれだけの成績を残すことができたのでしょう。素直に人の言うことを聞くことも大事ですが歴史上の偉人は自分の「エゴ」が少なからずあるように思います。人に流されず自分が信じ抜いたからこそ結果を出すことで周りを見返すことができたのでしょう。

日本人選手のパイオニア

今では大谷選手をはじめとした日本人選手がメジャー挑戦が当たり前の時代ですがそのパイオニアは野茂投手です。球団との揉め合いからメジャー挑戦を決断。現地の方は「日本人が通用しない」と否定的だったのにも関わらずマイナー契約から這い上がり結果を出し、アジア人初の偉業を成し遂げるなどの功績もあり一気に日本人選手がメジャーへの挑戦に積極的になったのです。

 今では当たり前のようにメジャー挑戦の話題が出るのも、選手の中にメジャー挑戦を視野に入れることができるのも野茂投手がパイオニアとしてメジャーの舞台で活躍したことが大きな影響でしょう。

まとめ

いかがだったでしょうか?3月に行われたWBCを機に野球ファンになった方も少ないでしょう。そんな方は昔の選手や伝説を立てた野球選手を認知している人は少ないでしょう。ただ、先人たちが築いてきた歴史を振り返ると今、当たり前のように一流選手が海を渡りメジャーに挑戦しているのも

「日本人がアメリカで通用しない」

否定されながらも結果を出してきたからこそメジャー挑戦の道が切り拓いたといったと言っても過言ではないでしょう。日本人選手のパイオニアの野茂投手が作った歴史は後世にも受け継がれてかなければなりません。

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