この記事では野球界の偉人について紹介するシリーズです。
第3回となる今回は野球の神様・ベーブ・ルースについてこれまでの功績について話していきます。
この記事ではなぜベーブ・ルースが「野球の神様」と野球のファンから讃えれているのかその所以がわかる記事になっています。それでは早速本題に入ります。
プロフィール
ベーブ・ルースの簡単な経歴は以下の通りです
- 本名ジョージ・ハーマン・ベーブ・ルース・Jr
- 1895年2月6日生まれ
- アメリカメリーランド州ボルチモア出身
- メジャーで22年間プレー
- 左投げ/左打ち
- 野球界で最も偉大な選手と評されている
- 53歳という短命でこの世を去っている
また、ベーブ・ルースが童顔だったことからニックネームは「バンビーノ」「ベーブ」の愛称で愛されていました。
プロ入り前〜悪童から神父との出逢い〜
ベーブ・ルースの家族は9人兄弟。しかし、うち、成人できたのはベーブと5つ年下の妹マミーだけ。
父は自営業の酒場を切り盛りする毎日。毎日、酒場の営業が忙しく、子供達の世話はしていなかったのです。
母は病弱でベーブ・ルースが15歳の時に結核で亡くなった。
父もベーブ・ルースが23歳の時に亡くしています。
そのため、ベーブ・ルースは家庭内で当たり前に行われている教育が皆無。町の不良少年となってしまいます。勉強もろくにすることなく、近所の不良たちと喧嘩に明け暮れる毎日。
他にも万引き、飲酒、喫煙、など悪童の道へ突き進みます。
そんなベーブ・ルースは誰の手にもつけられなくなり、孤児院へいくことになります。そこで出会った、教官でもあり、神父との出逢いこそがベーブ・ルースを野球の道へと導くことになります。
これこそがベーブ・ルースにとって人生の決定的な影響をもたらすことになるのです。
プロ入り〜孤児院からメジャーへ〜
ベーブ・ルーは教官から野球を教わりどんどん上達していきます。
19歳のとき、偶然試合を観に来たメジャーリーグの投手の目に留まりボルチモア・オリオールズのオーナー兼監督にご紹介。
その後、ベーブ・ルースの練習を観てすぐにプロ契約を結ぶことになります。
しかし、ベーブ・ルースは当時孤児院を出てからは仕立て屋になる予定だったため手先が大事な仕事であるため、野球をやめる予定でいたが感無量に嬉しかったそうだ。
メジャーデビュー〜世間知らずの少年〜
プロ入り後、チームメイトと合流するとチームメイトからは赤ちゃんと揶揄する意味で「ベーブ」のあだ名をつけられます。
孤児院では外部から隔離された生活がとても長く世間知らずの子供染みた様子からチームメイトはそう名付けたのでしょう。記念すべきメジャーデビューは1914年。
5試合に出場しうち、4試合はピッチャーとして出場。
しかし、当時所属していたレッドソックスはスターティングメンバーにスター選手がずらりと並ぶ強豪。
デビューしてまもなくマイナー行きへとなります。マイナーに降格したベーブ・ルースはピッチャーで貢献できないなら打者として貢献しようと思いバッティング練習に励みます。
しかし、周りからは世間知らずの少年。
バットを折られるなどの嫌がらせを受け終いには倉庫に眠っている、古いバットを探しては手に取り練習を続けたのです。その努力も実り、翌年に再びメジャーに昇格。先発ローテーションの一角を任されます。
18勝をマークし、打率.315、4本塁打を放つ活躍を見せます。
3年目は
- 23勝12敗
- 23勝のうち9完封
4年目でも
- 24勝13敗
- 24勝のうち6完封
- 打率.325
5年目でもベーブ・ルースの活躍は目覚ましく
- 13勝7敗
- 11本塁打
- ホームラン王に輝く
この年、1918年に
「メジャー唯一の2桁勝利・2桁本塁打」
を達成という偉業を成し遂げたのです。後に104年の時を経て、エンゼルス・大谷翔平が成し遂げることになります。
ヤンキース〜野球人生の黄金期〜
その後、1919年から1934年の15年間をニューヨーク・ヤンキースでプレーします。
ベーブ・ルースは伝説のような成績を難なく成し遂げていきます。特に黄金期と呼ばれた21年〜28年の7年間をピックアップしていきます。
21年シーズン
- 打率.378
- 59本塁打
- チーム初のリーグ優勝に貢献
当時のルールと現行のルールは異なり
現行のルールだとなんと104本塁打を放っていた計算になるとか!
22年シーズン
移籍2年目にしてキャプテンに就任するも審判の判定に納得がいかないと泥を投げるなどの不祥事により
キャプテンをシーズン始まって1ヶ月も経たないうちに剥奪。
- 打率.315
- 35本塁打
- 99打点
しかし、敵チームは分析にプレーオフでは「全球カーブ作戦」を決行。
敵チームの作戦に見事ハマり2安打に抑えられる大不振に陥る。
23年シーズン
- 打率.393
- 41本塁打
とこの年も猛打が炸裂。
さらにプレーオフでは2年間の鬱憤を晴らすかのような脅威的な成績で圧倒します。
- 打率.368
- 3本塁打
- 長打率1.00
と覚醒を遂げ、チーム初となるワールドチャンピオンの優勝メンバーとなります。
24年シーズン
ベーブ・ルースは衰えることを知らず次々と過去の成績を塗り替えていきます。
- 打率.378(首位打者)
- 46本塁打(両リーグ1位)
- 121打点
惜しくも打点で2位となりましたが、三冠王級の活躍と成績を残しています。
25年シーズン
この年はベーブ・ルース自身自己ワーストの成績に終わります。
- 打率.290
- 25本塁打
昨シーズンの活躍から野球の練習に打ち込むことができず試合前にホットドックを食べたり、炭酸ジュースを飲んだりチームのはみ出し者に。
他にも性病やアルーコール依存症になるなど、生活面でも乱れが成績に大きく響いたと言っていいでしょう。
26年シーズン
昨シーズンの悪習慣を改め、再び野球に打ち込むようになります。
- 打率.372
- 47本塁打
- 146打点
チームをリーグ優勝に導く活躍を果たしています。
結果だけではなく、ベーブ・ルースの野球に対する取り組みがチームにいい影響を与えたことは想像できるでしょう。
27年シーズン
この年のヤンキースは「殺人打線」と呼ばれるほどの脅威の打線。リーグ記録になるシーズン110勝を達成。
さらに2位のチームと19ゲーム差をつけて優勝するなどの圧倒的な力を見せつけます。
- 打率.356
- 60本塁打
- 164打点
自身4度目の本塁打記録を更新。
ワールドシリーズでも
4連勝負けなしでワールドシリーズチャンピオンになり圧巻のシーズンとなりました。
28年シーズン
ベーブ・ルースはこの頃から踵の痛みに悩まされるが自身4度目となる50本塁打を達成。
2年連続でワールドシリーズ4連勝で優勝に輝きました。
ベーブ・ルースの功績
ここまでの数字を元にお話ししてどれだけの素晴らしい成績を残してきたのかお分かりいただけたかと思います。
ベーブ・ルースが最初に所属していたレッドソックスの時、デッドボールと呼ばれる「飛ばないボール」時代にベーブ・ルースは飛距離の長いホームランを打ち投手としても名声を築いていたのです。
投手としては2度のシーズン23勝を挙げています。
レッドソックス在籍時は3度のワールドシリーズチャンピオンを経験。ヤンキース在籍した15年間で7度のリーグ優勝。4度のワールドシリーズチャンピオンを経験。
自身で何回も本塁打記録を更新し、最多の60本塁打を更新。
生涯通算で
- 714本塁打
- 2213打点
- 2062四死球
- ホームラン王12回
と野球の神様に相応しい記録を残してきた。
ベーブ・ルースがこの世を去った今でも現代の人に讃えられアメリカ国民のヒーローであり2018年には大統領自由勲章を追贈されたのだ。
ベーブ・ルース伝説
1923年 ヤンキースタジアム
当時ヤンキースは自軍の本拠地を持っておらず1923年に「ルースが建てた家」と呼ばれた球場で記念すべき第一号のホームランを放ったのがベーブ・ルース。
そしてこれだけがすごいのではなく、この時に使ったバットがなんと12,565,000ドルで落札されたのだ。世界一高いバットでギネス世界記録にもなった。
予告ホームラン
ベーブ・ルースはシーズン中の試合で打席に入り、構える前に外野フェンスを指差し「あそこに打つ」と言わんばかりの宣言をした時、なんと打球はバックスリーンへ一直線のホームラン。
なんとこれを行った時のベーブ・ルースは37歳。すでに黄金期が終わり、体が衰えていった時期だったのにも関わらずだ。
子供好きなベーブ・ルース
ベーブ・ルースは子供好きでも有名でした。子供達のストーリーを5つ紹介していきます。
子供に優しかったのはベーブ・ルース自身が子供時代、不良少年という生い立ちが深く関係していると思われる。当時の幼い自分と重ね合わせて子供たちと関わってきたのだろう。
チケットを買えない2人の少年
お金がなく、球場の入場券を買えず立ち尽くしている少年をみたベーブ・ルースは係員に札束を渡して
「買ってやれ」と促したのだ。おかげで2人の少年は球場でベーブ・ルースのプレーを観れたのだ。
少年の犬
ある試合でベーブ・ルースが打った打球が観にきていた少年の連れてきた犬に直撃。
それを知った、ベーブ・ルースはすぐに身元を調べお見舞いに行ったのだ。
約束のホームラン
ある少年が落馬が原因で死去。
大ファンだったため両親が無理を承知でヤンキースに連絡。チームはワールドシリーズを戦っている真っ最中。にも関わらず、ヤンキースのメンバーのサインボールと
「水曜日の試合で君のためにホームランを打つ。」
と書かれたサインボールが送られてきたのだ。水曜日の試合で3本のホームランを放ったのだ。
これは「約束のホームラン」と伝記されている。
ゴルフ場にいた少年
シーズンオフにチームメイトとゴルフを楽しんでいたのを入場のところから眺めている少年たちに気付き少年たちを誘って一緒にラウンドを回り、ジュースやお菓子を振る舞ったそうだ。
子供達のヒーローであるために
ヤンキースの25年シーズン。かなり悪習慣により成績を落としたベーブ・ルース。
パーティーで同席だったニューヨーク市長ジミー・ウォーカーに
「国中の子供たちがラジオに耳を押し付けて、君を英雄のように思いながら君のプレイを楽しみにしているんだ。その英雄がこんなだらしない体で、子供たちを失望させていいのか」
詰問された時、涙を流したのだ。それからシーズンが始まる前のキャンプから態度を改めヒーローに相応しいプレーを再びするようになったのだ。
まとめ
いかだったでしょうか?
野球の神様ことベーブルースの功績についてお分かりいただけたでしょうか?
複雑な環境下で育った幼少期、世間知らずの少年がグランドで圧巻のプレーをしてきたのです。
現役ですごい数字を残してきた選手は沢山います。ただそれだけではベーブ・ルースのように後世の野球ファンに語り継がれることはありません。
プレーの成績はもちろんですが、それだけではなく子供たち、アメリカ国民のヒーローであり続けて現代でも語り継がれる選手のだったことこそが素晴らしいです。
ベーブ・ルースが野球少年の的であり続けるでしょう。
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