プロ野球の歴史は今日まで在籍していた数万人のプロ野球選手たちの血の滲むような努力と努力をもろともしない結果至上主義から成り立っています。それがあったから今日本でメジャースポーツの地位を築いています。煌びやかな世界で野球少年なら誰もが一度は憧れたことがあるでしょう。
しかし、煌びやかな舞台にばかり目を奪われているせいなのか”引退”した選手たちが多種多様な職業に従事していたことは全く知られていません。今回は著者:松永多佳倫さんの「前職:プロ野球選手第二の人生で勝ち組になる」からプロ野球から退いた選手のセカンドキャリアについて話します。
・プロ野球とはどんな世界なのか
・野球選手のセカンドキャリアの実態
・野球選手がセカンドキャリアで成功するために必要なこと
こんな方におすすめです!
・アスリートの方
・これからプロスポーツ選手になろうとしている若者
・転職を考えている社会人
キャリアについて考えている人には必見です。
【野球選手のセカンドキャリア】
みなさんはプロ野球選手のアスリートのセカンドキャリアと聞いてどんな職業を思い浮かべますか?私がパッと思いつくのは、以前楽天の監督を務めていた大久保監督が居酒屋を出すことを宣言して引退してことが印象的です。かつては焼肉屋、スナック、居酒屋といった”飲食業”が定番でした。
しかし近年は野球選手にも将来について不安を抱えている選手が半分以上いるせいか以下のような職業についているケースもあります。
- 国会議員
- 大学教授
- 会社社長
- 公認会計士
- 司法書士
一昔前は「野球バカ」という言葉があるくらい野球しかしてこなくて勉強は全くできないといった典型的な野球選手をイメージされる方も多いです。近年ではそういったイメージが変わりつつあります。しかし、未だ就いていない職業は医者と弁護士の二つだけです。
プロ野球選手の第二キャリアで詳しく知りたい人は【プロ野球選手から第二キャリアで社長】や【プロ野球選手から初の公認会計士】、【プロ野球選手から第二キャリアで公務員に転身】をチェックしてください。
プロフィール
まず今回ご紹介する元プロ野球選手のプロフィール、簡単な経歴をご紹介します。
- 寺田光輝(てらだこうき)
- 1992年1月5日生まれ
- 三重県出身
- 三重県伊勢高校-三重大学中退-筑波大学
- 独立リーグ石川ミリオンスターズに2年間在籍
- 2017年DeNAベイスターズにドラフト6位で入団
- 19年シーズンで戦力外通告
- 2021年10月東海大学医学部に編入学
寺田さんは地元の高校で野球を続けて三重大学の医学部に入学していました。帰省していた後輩にキャッチボールに誘われその際に奮起され未練が残っていた野球に再び打ち込むことを決意します。2年のブランクがありながらも4年間続けてそこでもコーチに「お前はいいものを持っている!続けなさい」と言われ独立で2年間プレーすると夢の舞台へ。
しかし、結果を出さないといけないという焦りからか練習でもがむしゃらにやってしまい怪我をしてヘルニアに。手術をして再び投げれるようになったものの結果は出ず2年間で現役生活にピリオドを打った選手のストーリーです。
家系は代々医師
寺田さんの家系は以下の通り
- 母方の祖父はと叔父は産婦人科
- 父は伊勢市で内科・胃腸内科を診療科目とするクリニックを開業
- 父の従兄弟は外科医
家系が医師だと聞くと私もみなさんも思い浮かべるのが”親の後を引き継ぐ”という典型的な形を思い浮かべるでしょう。親は固く、スポーツはあくまで一貫として行い本業は親の医師を継ぐこと。生まれた時からそのルートを走らないといけないと決められている人生だと思う方も多いです。
寺田家は親が子にレールに従わせるような生き方を教えてはいませんでした。親は放任主義で大事にしていたのは子どもの意思の尊重すること。両親の教育のおかげで寺田さんはのびのびと育っていったのです。寺田さんが子どもの頃を振り返っても
「親から勉強しろと言われたは一度もありません。野球も進路もああだこうだと言われなかった。子どもの考えをきちんと尊重してくれていました。」
と語っています。
エリートではないプロ野球選手の野球経歴
高校は父も通っていた地元の進学校でもある伊勢高校に通います。体格はかなり小柄でエリートでもなんでもありませんでした。
寺田さんがどのような家系で育ったのかを聞いて「やっぱりすごい人だったんだ」と言うのはまだ早いです。ですが、野球となれば話が別です。勉強ができても野球は頭ひとつ良くても上達するとは限りません。そんな寺田さんのこれまでの野球経歴について話していきます。
プロを目指したきっかけはチームメイトへの申し訳なさ
- 身長175センチ
- 体重75キロ
ましてやピッチャーの部類になるとさらに小柄な方に分類です。小学生の頃から始めた野球は中学以降はずっとベンチ。中学・高校・大学と補欠でプロ野球選手になった話はなかなか耳にしないことでしょう。高校時代も自分たちの代になってもエースナンバーを背負うことはありませんでした。最後の夏はリリーフで登板した寺田さんがフォアボールを連発から連打をくらいコールド負けとあっけなく終わりました。
しかしこの敗北こそプロの道を意識させました。自他ともに認めるくらいの練習をしてきたわけではなく、余計にチームメイトに申し訳なさを感じたそうです。プロを目指すきっかけは自分がプロに行って”寺田と一緒にプレーをした”と自慢したり誇りに思ってくれたという想いでした。
大学中退から再び入学
プロを目指す以上、進学先も慎重に選ぶ必要があります。寺田さんが選んだのは、当時東海地区で圧倒的な強さを誇っていた三重中京大学と互角だった国立三重大学です。
大学に入ったものの、レベルがものすごく高い。同期のピッチャーとキャッチボールしても今まで見たことのない球を投げてきて度肝を抜かれたそうです。あまりのレベルの違いを目の当たりにして自信を失ってしまいます。
プロになれないのなら野球をする意味がない。だったら医師家系の長男として生まれてきたのだから医師を目指すとあっけなく目標が変わってしまいました。
しかし、国立大学の医学に入学するには東京大学理科I類レベルが必要です。受験をするも不合格。籍だけ三重大学において受験勉強をするも次第にモチベーションが下がりフリーター生活を送ることになります。そんな寺田さんに夏休みに転機が訪れます。
筑波大学にいった後輩から帰省きておりキャッチボールがありました。丸2年遠ざかっていた野球から久しぶりのキャッチボール。球を受けた後輩が「先輩、今なら通用しますよ!筑波に来てくださいよ。プロも狙える大学なんで大丈夫ですよ!」といい、もう一度やりたい気持ちが芽生えました。
筑波大学は国公立で唯一神宮大会に優勝している国公立の強豪の中の強豪です。二浪という体力的ハンデ、技術的な部分も含めて同じ新人選手との差は歴然。部員は120人を超えその半分以上が全国の精鋭たちの集まり。またもや入部してレベルの高さに圧倒されたのです。
大学2年のときには靭帯が断裂して手術をして多くのリハビリ期間を過ごすことになりました。リハビリ期間で得たトレーニングによって入学当初は130キロにも満たなかった球速が4年時には140キロを超えてました。3年の秋からベンチ入りを果たし4年時にようやく公式戦のマウンドに立つ機会が与えられたのです。寺田さんの成績は以下の通り
- 公式戦12試合に登板
- 中継ぎで1勝1敗
- 最後のシーズンは防御率0.00
まだやれる!という強気が蘇り、そんな気持ちを察していたコーチから声をかけて頂いた石川ミリオンスターズに入ることになります。
24歳で独立リーグへ
独立リーグは簡単にいうと大半が元プロ野球選手や指名漏れした選手した選手たちがプロ野球を目指す場所です。そんなレベル下でどうやったらスカウトの目に止まるのかを考え抜いた先にたどり着いたのがサイドスローへの転向でした。
1年目から全試合に登板してまずまずの成績を収めました。1年目の夏頃に某球団と接触して「指名するから」と言われていたが蓋を開ければ指名漏れ。2年目は成績は落ちたものの、ボールの質はキレを増し、変化球の精度もレベルアップ。ついに寺田さんの名前は呼ばれプロの扉を開けました。
あっけなく戦力外通告
「ハマの便利屋になります」
指名直後の会見で寺田さんはそう言いました。寺田さんに限らず、独立リーグから這い上がった選手は短期決戦です。大学経由の独立リーグの選手には、大体2年間くらいしか猶予がないのです。
2軍で登板機会を与えられてもなかなか結果が出ず、相手チームの便利屋になってしまった。焦りからか無理をしすぎてシーズン3ヶ月を経った頃に腰を痛めてヘルニアの手術を受けます。
ここで夢にまで見て到達できた頂点の世界で居場所を確保していくことがどれだけしんどいことのなか体感したのです。2年目になっても焦る気持ちだけが先走る状態。手術した腰の調子が良くならない。身体的に限界に近く精神的にもいっぱいいっぱい。
2年目の試合でも3試合連続3失点と結果が出ず、”終わりかな”と薄々気づき始めていた。そして9月30日球団から電話がかかってきて、10月1日に正式に戦力外通告を受けました。
再び医学の道へ志す
戦力外通告を受けた翌日から寺田さんは動き始めます。医師になることを決めました。医学部受験を最優先にしたくバイトをしながら勉強することに決めます。塾のアシスタントアドバイザーのバイトによる2つの時間帯で勉強スタイルを取りました。
- 午前9時〜午後1時 バイト
- 午後2時〜午後5時 勉強
- 午後5時30分〜午後10時30分 バイト
- 帰ってきてから2時間 勉強
- 午前9時〜午後1時 勉強
- 午後2時〜午後5時 勉強
- 午後5時30分〜午後10時30分 バイト
ここでこだわっていたのは「親に負担をかけない」ことでした。自活するためにバイトをやる。進学塾でアルバイトをしながら自らも学ぶため、1日8時間から10時間以上は勉強する時間が確保できた。プロ野球選手になったという成功体験を得たことでより一層集中して勉強する毎日を送ったのです。
寺田さんが戦力外通告を受けたのは27歳のとき。5年後に合格したとして33歳。そこから医者になるまでは6年かかるとなると、40歳間際でやっと研修医になります。
時間がないことに身に染みて感じて奨学金制度を調べてみると私立でも何とかやりくりできることがわかり、編入試験で偏った試験がない東海大学へ編入試験を受けます。そして、2021年の7月に見事合格しました。
プロ野球選手の第二キャリアの大学進学に興味を持った方は【プロ野球選手から22歳で大学進学】を合わせてチェックしてみてください。
医学部合格した元プロ野球選手の言葉5選
最後にプロ野球選手から医学部合格した寺田さんの言葉を5つご紹介します。アスリートの方や現在キャリアに悩んでいる方などに向けたメッセージとなっています。
1日中ひとつのことをずっとやるより他のことを入れた方がより集中してできる
医師になることを志したときにバイトと勉強の両立をしたご自身の経験からです。記憶の定着にいいとされているのは1日にずっと同じ科目の勉強をするよりも、2時間のうち30分単位で区切って4つの科目の勉強をした方で集中もしやすいです。一つのことだけにならず、いくつか分散してみるといいかもしれません。
夢は叶うものではなく、追うもの。でもその過程は尊い財産となる
中学からずっとベンチメンバーだった選手がまさかプロに行けるなんて誰も思わないでしょう。”プロ野球選手になる”という夢を叶えたのではありません。高校野球の最後の試合を機に追い続けたのです。プロ野球選手になった現役選手を見ても経歴はバラバラです。
野球エリートで甲子園から注目されそのまま東京の大学でも注目をされてドラフトにかかる選手がいます。一方で大学を中退して、再び大学に入り独立リーグという狭き門から入る選手だっているのです。
どんな形でもいい。夢を叶えるには追い続ける覚悟が大事なのです。叶えたとき、そのプロセスが尊い財産でこれからの人生に大きく役に立つことでしょう。
見栄は捨てろ、意地を張れ
独立リーグから這い上がってきた選手だからこその言葉ですね。誰しもがグランドでカッコよくプレーしたいと見栄が働きます。しかし、見栄を張っていいものはありません。周りにはイエスマンしかよってこなくなります。成長は止まります。
何かを成し遂げるときに見栄は捨てるべきです。頑張っている姿はカッコよくないし泥だらけ、汗まみれになりながらプレーするよりも華麗にプレーをした方がよっぽどカッコよく見えるかもしれません。大丈夫。意地を張り続けていけば見栄を張っている周りの選手に必ず差ができる。
好きなことなら誰でもできる。だからできると思え
今回の内容では触れていませんが、寺田さんのインタビューでは「プロ野球選手なんかよりも心の底から好きに慣れないことでも社会のために頑張っているサラリーマンの方がよっぽどすごい。」と語っています。プロ野球選手は小学生の頃からやってきた大好きな野球が仕事になっているわけだから練習して、頑張れるのは当然のことだ。と言いいたいのです。
何か今好きなことや夢中になれることがあるならやりましょう。仕事でも勉強でも何でもいいです。自分が好きなことをしているなら頑張れて当たり前。信じ続けた人には必ず素晴らしい未来が待っています。
つべこべ考えずに、とにかくやってみろ
寺田さんは大学中退、そして戦力外通告からの動きがものすごく早かったです。考えるは最小の時間で、考えが決まったらあとは体を動かすだけを体現しています。
プロの世界もとにかくやっている選手ばかりだそうです。医学的にも『とにかくやれ!』は脳科学的にも正解です。身体の動かし方は運動をコントロールしている小脳で覚えます。考えずに動かせるようになるには脳に覚え込ませることが大事みたいです。
まとめ
寺田さんのセカンドキャリアでの成功要因は、お金を考えず自分が何を成し遂げたいかを第一に考えて決断したことです。これからも寺田さんは患者に寄り添う医者となり町医者とスポーツ医学の両方の実現に向けて夢を追いかけています。
目指す目標がなくなってしまってすぐに次のステージを決めれない人の方が多いでしょう。そんな時は、学生時代に何がしたかったのか、これまでの人生で何が好きで何に夢中になって過ごしてきた経験を思い出しましょう。
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