広島東洋カープ、その輝かしい歴史と現在の活躍。
一体どうしてカープは広島をはじめとする多くの野球ファンから応援されるのか、何が彼らを特別な存在にしているのでしょうか?
過去と現在を織り交ぜ、カープの魅力と成功の秘密に迫ります。
野球愛溢れる情熱、70年以上語り継がれる伝説、想像を絶する敗北の数々から掴んだ栄冠への歩み。
広島カープの魅力を探り、成功がもたらす魅力に迫り、カープについて詳しく知りましょう。
このコンテンツでは広島カープの球団紹介すると同時に以下のような情報が得ることができます。
・広島東洋カープとはどんな球団なのか
・球団の歴史
・球団の優勝、成功と栄光
・現在のチームの展望について
広島カープってどんな球団?
まずは広島カープがどんな球団のか、ファンではない人にも知ってもらえるように紹介します。
所属リーグ | セ・リーグ |
本拠地 | MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島 |
2軍グランド | 宇由練習場(山口県岩国市) HIROHAI佐伯総合スポーツ公園(広島県廿日市市) |
キャンプ地 | 宮崎県日南市 沖縄県沖縄市 |
創設した年 | 1949年12月5日 |
運営している母体 | 株式会社広島東洋カープ |
広島カープは12球団唯一の市民球団です。創設は1949年。
戦争が終わり、広島には原爆が投下されて、市民に元気と希望を届けようと復興の象徴が広島カープです。
カープは「鯉」を指しており、広島市を流れる太田川が鯉の産地であったことや、広島城が鯉城と呼ばれていたことなどから名付けられました。
時には球団経営が困難で財政難に陥るも市民の募金のおかげでなんとか乗り越え今があります。
年表からみる球団の歴史
ここからはカープの創設から今日までのあゆみを振り返っていきます。
これからの話を聞くとカープが今日まで球団があるのはある意味奇跡かもしれないです。
市民球団として球団を存続させるために市民の力を借りて、市民から1番応援を受けてきました。
だからこそカープは12球団で最も選手とファンの絆のある球団になったのだと思います。
広島カープ時代〜球団創設〜
カープというチームができるまで、今では考えられれない非常事態でした。
チーム発足が決まって、監督は大陽ロビンスで監督を務めていた人に決まっていました。
大陽ロビンスの2軍選手を引き抜くつもりで誰もがチーム作りに不安はありませんでした。
しかし、大陽ロビンスが日本のメジャー映画会社の松竹から出資を受けることが決まりました。
球団名を変えようとしていたため2軍選手を手放すことができなくなりました。
球団発足の式を迎えて契約した選手は前代未聞の0人でした。
監督の生まれが広島だったこともあり、広島出身の選手に呼びかけを行ったり、それでも足りず引退した選手までも入団させてシーズンがスタートしました。
迎えた1年目は著しく成績が低下し、首位とのゲーム差は59まで広がり勝率は3割にも満たなかったです。
あまりの成績不振に球団は資金繰りに困り果てしまいます。
前代未聞だが、選手への給料の支払いが遅れたり、2軍選手は4月しか給料が支払いがない状態でした。
最終的には用具店の支払いができず倒産させてしまうほどでした。
1954年〜1964年
1954年はチームの若返りを図り、7人を外へ放出し新たに19人が入団します。
しかしコーチ陣は監督たった1人で指導不足が課題でした。
1957年に地元企業11社で構成された親睦会の寄付により市民球場の新設が始まります。
1958年は市民球場の新設もあり、大幅に観客動員数が増加し資金繰りにゆとりが出てきて大幅な補強を行いました。
オールスターゲーム(球宴)が初めて広島で開催された年でもありました。
1959年は大幅な補強によりチームの平均年齢21.9歳と最も若いチームに生まれ変わります。
球団通算500勝目を挙げます。2軍のウエスタンリーグで優勝を飾りました。
1960年は創設11年目にして初めて巨人にシーズン勝ち越した。
1963年に東洋工業(現:マツダ)社長の松田恒次が球団社長に就任します。
1964年シーズンで世界の王に対抗し、「王シフト」を引きました。カープのデータ分析チームが打球方向の7割が右方向、かつ、一本足打法で流し打ちができないことから以下のようなポジショニングを取りました。
- ファースト:一塁線
- セカンド:1・2塁間
- ショート:セカンドの定位置
- サード:ショートの定位置
広島東洋カープ時代〜赤ヘル軍団の黄金期〜
1968年シーズンは創設19年目で初めてAクラス入りを果たします。
1969年は11連敗など著しく低迷し最下位に転落します。
1973年に開幕から首位争いを展開するも、最終的には最下位で終わります。
1974年にのちに監督になるジョー・ルーツが打撃コーチとしてチームに加わります。ユニホームを新調し、ユニホームの所々に赤色を入れた新しいユニホームでチームカラーが赤になりました。
1975年に球団初の外国人監督でルーツが監督になります。帽子とヘルメットを赤色に変わります。ルーツは選手に以下のような命令を下し、チームの雰囲気に緊張感が生まれました。
全力疾走しない選手は10万円の罰金と2軍落ち
しかし、ルーツはシーズン早々に審判に猛抗議し、最終的にはボイコットまで行う熱血の監督です。
わずか公式戦15試合、4月にはユニホームを脱ぎ、新たに古葉が指揮を執ることになりました。
赤いヘルメットでグランド上を駆け回る姿を見たメディア、ファンの方がカープの選手たちを「赤ヘル軍団」と名付けるようになりました。
シーズン序盤から打線は山本浩司や衣笠祥雄らが、投手陣は外木場義郎が主軸となり勝利を積み重ねていきます。ついに創設25年目にして悲願のリーグ優勝を果たしました。
1978年は山本浩司を筆頭に4人の選手が30本以上のホームランを放ち、チームのホームラン数を205本で当時のプロ野球記録を更新しました。
1979年シーズンは後半戦から勢いをつけて8月に首位へ浮上しそのまま首位の座を譲ることなく2度目のリーグ優勝を果たしました。日本シリーズで近鉄バッファローズを相手に4勝3敗で悲願の日本一を達成しました。
1980年は磐石な強さを見せた。シーズンスタートから首位を走り続け、初のリーグ優勝2連覇を達成します。
日本シリーズで近鉄バッファローズと対戦し、4勝3敗で破り2年連続日本一を達成します。
1981年〜2000年
チームはBクラスに落ちるも個人成績は以下のように投手陣の活躍が目立ちました。
- 北別府学 最多勝を獲得
- 津田恒美 新人王
1984年に4年ぶりのリーグ優勝を果たします。
日本シリーズで阪急ブレーブス相手に4勝3敗で3度目の日本一を達成します。
1986年に古葉監督から阿南監督に変わり、レギュラーを固定化した不動のオーダーを決行します。
このシーズンは外国人選手が在籍していないことから12球団唯一の純国産打線でした。
就任1年目でリーグ優勝を果たすが日本シリーズで西部ライオンズに敗れてしまいます。個人成績は北別府学が投手部門のタイトルを独占しました。
1987年に衣笠祥雄が連続試合出場の世界記録を更新しました。
1989年から山本浩司が監督に就任し、チームの指揮を執ります。
メジャー球団のレッズ風の新しいユニホームに新調します。
1991年のチームは絶対的4番が不在で長打力に乏しいチームであったが、投手力を核にしたチームを作り上げ見事リーグ優勝を達成します。投手陣の個人成績はカープで独占しました。
- 佐々岡真司 MVP、最多勝、最優秀防御率、沢村賞
- 川口和久 最多奪三振
- 北別府学 最高勝率
- 大野豊 最優秀救援投手
1992年シーズンは10年ぶりのBクラスに転落するも、北別府投手が通算200勝を達成します。
1993年は19年ぶりに最下位に転落します。
1995年は2位とAクラス入りを果たし、個人の成績が著しく伸びました。
- 野村謙二郎 トリプルスリー(打率3割、本塁打30本、盗塁30個)
- 江藤智 ホームラン王、打点王
- 緒方孝一 盗塁王
- 山内泰幸 新人王
1996年は江藤智が最高出塁率、緒方孝一が2年連続の盗塁王、ルイ・ロペスが打点王を獲得しました。
1997年は緒方が3年連続の盗塁王に輝きます。ドラフトで1位で澤崎俊和、2位で黒田博樹を獲得しました。
1999年に達川光男が監督に就任します。
チームは5位に終わり、責任を感じたコーチ陣が辞任しました。
2000年は3年連続の5位に終わります。
2001年〜2023年
2001年から再び山本浩司が監督へ就任します。しかし、Aクラス入りとはなりませんでした。
2002年はシーズン前半では優勝争いに食い込むが8月から調子を落としてしまい、最終的にはBクラスで終わります。
打線の主力だった外国人選手が退団し、金本知憲がFAで阪神に移籍してしまいます。
2005年はチームの再建のために改革を起こしてみるも投打のバランスが噛み合わず、12年ぶりの最下位に転落します。
2006年にジョー・ルーツ以来となる外国人監督、マーティ・ブラウンが監督に就任します。
ドラフト1位で前田健太(現・ツインズ)を獲得します。
2007年に黒田がドジャースへ移籍、新井が阪神に移籍し投打の主力が抜けてしまいます。
2009年に本拠地をマツダスタジアムに移転します。
2010年は前田健太が投手三冠(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振)を獲得します。
2011年は一時は首位になるも交流戦で50イニング連続無得点と打線が極度のスランプに陥ります。球団ワースト記録の4試合連続完封負けを喫してしまい、3年連続5位に終わります。
2013年は3位とAクラス入りを果たします。
この年、楽天イーグルスが日本一を達成したことでカープが「12球団で最も日本一から遠ざかっている球団」となりました。
2014年は2年連続でAクラス入りを果たす。この頃から多くの女性ファンがマツダスタジアムに足を運ぶようになり、「カープ女子」のワードで新語・流行語大賞トップ10にランクインしました。
14年オフにはヤンキースに所属していた黒田と阪神に移籍していた新井がカープに復帰しました。
2015年から緒方孝一が監督に就任する。球団4000勝目を挙げます。
シーズンは4位に終わるも年間の観客動員数は歴代最高の211万人を記録しました。
2016年は「1番・田中2番・菊池3番・丸」の「タナキクマル」の打順の固定化と4番の鈴木誠也がブレイクし25年ぶりのリーグ優勝を達成しました。
黒田が現役引退し付けていた背番号15は永久欠番となりました。
緒方監督がインタビューで鈴木に対して「神ってる」の発言が流行語大賞に輝きます。
2017年は開幕2戦目から10連勝すると、6月から首位を走り続け2年連続のリーグ優勝を果たします。2軍もウエスタンリーグで優勝を達成します。
2018年は4月下旬から一度も首位の座を譲ることなく球団史上初の3年連続リーグ優勝を達成しました。
2021年はBクラスに終わるも昨年、新人王に輝いた森下らの若手選手の活躍が目立ちました。
- 鈴木誠也 首位打者
- 九里亜蓮 最多勝
- 栗林良吏 新人王
2023年から新井貴浩が監督に就任します。5年ぶりにクライマックスシリーズに進出するも阪神に4連敗で日本シリーズ進出とはなりませんでした。
ここまで駆け足でカープの歴史を辿りましが、昔からカープのことを知って、応援しているファンにとっては感慨深いものがあると思います。球団創設時は市民球団故に倒産の危機に陥るも、地元企業や市民の支えがあってこそのカープです。
歴史を振り返るとカープの黄金期は投手力と打線の主軸となる4番の存在がいるチームで強さを発揮し優勝を果たしていますね。カープと聞くと「平成唯一、日本一になれなかったチーム」「最後の日本一が昭和の唯一の球団」など「優勝」が達成できていないことに対してメディアに取り上げることがしばしばありますね。
ファンなら知らないと恥ずかしいできごと
ここからはわたしからカープファン、カープ女子ならこのこの歴史だけは知っておいて欲しい!という出来事を厳選しご紹介します。もはやこれを知らずファンは語れないと思った方がいいです!
圧倒的成績を残した気力の鉄人
鉄人といえばそう、衣笠祥雄です!衣笠さんの簡単なプロフィールは以下の通りです。
- 1947年1月16日生まれ
- 京都府京都市出身
- アフリカ系アメリカ人の父と日本の母の間に生まれた
- 現役生活23年のうち、16年連続で全試合に出場し、数々の日本、世界記録を更新した
- 2018年他界
衣笠選手のすごいところは休まず試合に出場するための体調管理と試合へ出続ける気力と執念です。
怪我をしたままプレーしても出続けていました。
なぜそこまでの執念があったのか?それはこれまで知られることがなかった少年時代にあります。
衣笠さんが生まれた当時はまだ終戦直後ということもあり、外国人の子どもに対する風あたりは強かったです。そのため、衣笠さんは子どもの頃から仲間はずれにされたり差別を受けてきたのです。私では到底経験で着ない苦労を味わってきたのです。
そんな過去の経験から全治2週間の骨折と診断されても「少年時代の苦労に比べれば、苦労のうちに入らなかった」のでしょう。
若い頃の苦労が大人になった時に苦労を苦労と思わなくなり、苦労によって気力が培われ気力を通じて以下のような素晴らしい成績を残すことができたこれから先、2度と衣笠さんのような気力ある選手は現れないでしょう。
- 通算2543本安打
- 1448打点
- 連続試合出場記録 日本記録、世界2位
- 連続フルイニング出場歴代5位
- 通算本塁打歴代7位
- 日本で3人しか達成していない500本塁打、200盗塁を達成
- 出場試合数 2677
低迷期を支えた2人の”前田”
今では優勝争いに食い込むチームとなりましたが、それまでは長く勝てない時期が続きました。FAでチームの柱でもあったエース黒田博樹がメジャーへ、4番の新井貴浩、精神的支柱の金本知憲が阪神へ移籍しました。
チームの主力が欠けたチームを支えていたのは2人の”前田”です。その名も前田智徳と前田健太です。
前田智徳
前田智徳のプロフィールは以下の通りです。
- 前田智徳(まえだとものり)
- 1971年5月14日生まれ
- 熊本県出身
- 熊本工業高校
- 1989年ドラフト4位で入団
- 2013年に現役引退
プロ1年目から初ヒットを記録すると天才級のバッティングセンスで頭角を現していきます。その証拠に現役通算で残した数字が物語っている。
- 2000本安打達成
- 通算打率.302
1991年の優勝を知るメンバーでもあります。チームが勝てず、低迷期の中もチームの最前線で戦い続けました。6年目にアキレス腱を断裂してしまいます。それから代打での出場が多くなりました。
しかし、バッティングのスペシャリストの腕が落ちることはありませんでした。当時、若手だった丸選手現・巨人はその姿を目の前で見て多大なる影響を与えていました。当時、影響を前田の姿勢に影響を受けた選手らがのちにチームを担い、リーグ優勝3連覇を成し遂げるのでした。
前田健太
前田健太のプロフィールは以下の通りです。
- 前田健太(まえだけんた)
- 1988年4月11日生まれ
- 大阪府出身
- PL学園高校
- 2006年ドラフト1位で入団
- 現在はデトロイト・タイガースでプレーしている
今でこそメジャーでも活躍するような日本球界を代表する投手です。
しかし、そんな前田投手も1年目は1軍での登板はありませんでした。
そんな中、代々カープのエースが背負ってきたエースナンバー『18』をつけることになります。
前田投手が背負うまでつけていたのは、通算200勝を挙げた大エース佐々岡真司さんです。
チームは佐々岡さんは引退、絶対的エース黒田博樹はメジャーへ移籍して勝ち柱が2本欠けていた状態でした。
このエースナンバーが前田投手をエースへ、日本を代表する投手へと駆け上がります。
2年目で9勝を挙げ、その後も活躍を見せ多数のタイトルを獲得していきます。
前田投手はエースとしての頭角を現していきます。そして2010年に大ブレイクします。
- 18勝15敗
- 史上最年少、球団史上初の投手三冠(最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振)
- 沢村賞を獲得
チームが勝てない苦しいとき投手陣、チームの柱として結果を残し続けました。
メジャーへの移籍の際に空港で見送りの際は大瀬良大地投手をはじめ、慕われた後輩投手が大泣きしながら見送られファンからもチームからも愛された投手でした。
2人の前田がチームはのちに3連覇を果たし常勝軍団へと駆け上がっていきました。2人がチームに残した功績は図りしれない。
漢気の背番号15〜カープ愛溢れる魂の投手〜
およそ8年前、2015年に「20億を蹴った男」で当時の世間は大騒ぎをしていたことをご存知でしょうか?
メジャーの球団が年俸20億円を提示したのにも関わらず推定年俸5億円の広島カープに復帰を決断した、その漢の名は黒田博樹です!プロフィールは以下の通り
- 黒田博樹(くろだひろき)
- 1975年2月10日大阪生まれ
- 父は元プロ野球選手、母は五輪の砲丸投げの強化選手であり体育教師
- 上宮高校ー専修大学出身
- 2007年から11年間プレーしメジャーのドジャースへ移籍、その後名門ヤンキースへ
- 8年アメリカでプレーしたのちに8年ぶりの広島復帰を果たす
- 2016年に引退
- 日米通算200勝を達成した
アマチュア時代は無名の選手で上宮高校では控え投手でした。
専修大学で頭角を現し、チームを2部リーグから1部へ昇格に大きく貢献します。
プロ入り後は徐々にチームの絶対的エースとなります。
黒田投手はその漢気溢れる決断からあまりプレーの特徴について触れられないことが少ないですが、メジャーでも活躍した偉大な投手です。ヤンキースでプレーした3年間全て2桁勝利を挙げています。
そんな黒田投手のピッチングスタイルを一言で言うと「芯を外して打ち取る」です。
大谷翔平や前田健太、広島の森下投手らの決め球に使う球種は「カーブ、スライダー」に対して、黒田投手は「シンカー」です。
シンカーをはじめ、カットボール、ツーシームといわゆる「ストレート系」の球種を多く投げていました。
変化量は小さいですが、野球の基本である「ストライクを入れて打たせて取る」が徹底された投手でした。
黒田投手のすごいところは上部の成績ではなく、親から教えてもらった信念を野球人生で貫き通した決断にあります。アメリカに渡った時にこんなエピソードがあります。
メジャーでプレーする選手は長期契約、大型契約を結ぼうと自分を売り込むの常です。
しかし、黒田投手の考えは「メジャーで一球も投げていないのに、何年も実績を積んでいる選手よりも条件がいいなんて納得できない」と減俸、1年短縮して契約を結びました。
また、シーズン中優勝を狙うチームからトレードの打診を受けた際に「行ったばかりのチームで優勝しても素直に喜べない」と断じてトレードの話を一切聞きませんでした。
ドジャースに入団にする会見で黒田投手は「広島東洋カープから来ました」から挨拶を始めました。この言葉の裏には、「私がここにいるのは自分の実力だけではなく、広島東洋カープという温かいファンに支えられてここまで来ました」というカープへの恩を忘れていない一言だったと私は捉えています。
以上のエピソードから漢気溢れファンから愛された背番号15は不滅です。こんな素晴らしい選手がカープでプレーしていました!今日ファンになった人も絶対黒田投手のことを忘れてはいけません!
市民球団の意地と情熱の赤〜カープの優勝と栄光〜
ここからはカープの球団としての成功と栄光について振り返ります。
70年以上続く球団の歴史は長く、しかし順風満帆の歴史を歩んできたわけではありません。
創設時は契約選手が1人もいないところから始まり、成績が低迷しても地元企業や市民の募金からなんとか繋いできた球団です。
球団初優勝までの長い道のり。そこから長らく低迷したチームが再び目を覚まし、球団初の偉業を成し遂げてきました。
創設から26年待ちに待った初優勝
カープが初めて日本一を達成したのは創設26年目です。それまで3年連続最下位の万年Bクラスの弱小球団でした。球団は改革を図り、初の試みのメジャー出身の外国人を監督に指名します。負け犬根性を払拭を目指し打ち出した改革は以下の通り。
- 大型トレード
- 帽子を青から闘志を象徴する赤に変更
そして『可能性が1%である限り全力を尽くす』という監督の姿勢が、選手たちに闘争心を植え付けました。
他にも、選手の疲労軽減するため、選手自ら運んでいた荷物を荷物運搬専用のトラックを購入します。新幹線移動はグリーン車にしました。キャンプでは投手陣には「寒い時期には投げず肩を大事にしろ」と次々とアメリカスタイルを取り入れました。
シーズンは中日、阪神、ヤクルトと優勝争いが激化します。それでも、『辛抱強く勝つ』野球で万年Bクラスのチームが熱い戦いを繰り広げました。
初優勝のプレッシャーは選手がこれまで感じたことのないもので、プレッシャーのあまり疲れているのに寝れない日が続いたそうです。それを知った山本浩司ら主力選手は音頭をとり飲みに誘い決起集会を開きました。
負けた試合のバスではスタッフが音痴ながら大熱唱し雰囲気を明るくしていたと当時のメンバーは語ります。
「優勝まで踏ん張ろう!」という雰囲気をチーム全員が作っていました。そして後楽園球場で迎えた10月15日。待ちに待った初優勝を見事果たしました。
数日後に行われた優勝パレードの沿道に並ぶカープファン、広島市民の中には、遺影を持っている方や正座をして涙を流しているファンや広島市民がいました。創設26年目、長年待ちに待った優勝は球団、ファン、市民にとって大きな出来ごとでした。
球団初のリーグ3連覇
カープがリーグ3連覇を達成したのはおよそ8年前のことです。2014年にクライマックスシリーズでは大瀬良投手が中日相手に打ち込まれベンチで泣いているところをエース前田健太が側に寄り添い幕を下ろしたシーズンでした。シーズンオフにはヤンキースに所属していた黒田と阪神の新井が復帰した。15年にはエース前田が渡米して迎えた2016年のシーズン。
1番・田中、2番・菊池、3番・丸、4番・鈴木、5番・新井の上位打線を固定化したチームで打線は奮起し、それに応える黒田をはじめとした投手陣のかみ合い、東京ドームで25年ぶりの優勝を達成しました。東京ドームで涙する黒田と新井が抱き合ったシーンはファンの方も涙したのではないでしょうか。
優勝した次のシーズンはどうしても雰囲気に緩みが出てしまい、Bクラスに落ちることもしばしばあります。しかし、カープの情熱は1度優勝したからといって消えたりしません。昨年神ってるでブレイクした鈴木誠也の絶対的4番の存在でチームは主力選手を軸にチームが機能したことが成績に結びついたと思います。
球団カルチャーとファンとの絆
ここからはカープとファンとの繋がりや歴史的に語り継がれるエピソードをご紹介します。間違いなく12球団の中で最も球団とファン、地元市民の繋がりがあります。カープに対してアンチが少ないのもファンとの関係性が築けているからに他なりません。
市民から球団への愛〜たる募金〜
カープが生まれたてのおよそ70年前のことです。球団存続の危機の時に助けてくれたのは広島市民でした。市民が声をあげ球場前に4斗サイズの樽を用意しました。次々に球団のために樽の中に支援金が寄せられるようになった。
1回の募金額はおよそ3万円から6万円だったと言われています。終戦間もないころを考えるとかなりの大金を募金したことがわかります。それだけカープは市民にとって誇りだったのです。
私はチャリティー活動やコンビニの募金箱に1回3万円以上募金したことがありません。しかし、当時の広島市民はどれだけカープのことを思っていたのか。
市と県の自治体の出資によって危機を乗り越えて市民、県民自らが球団の株主になり、お金を集めてチームを支えてきた事もあり、市民球団と呼ばれることが多いのです。
1試合1000回以上のスクワット応援!
広島の応援といえばズバリ!スクワット応援です!始まりは何か目的や意図があったわけではなく、自然発生した応援だとか!
応援歌に合わせて立ったり座ったりを繰り返しながらスクワットするようにして声を出す応援方法です。遠くから見ると、スタンドが波打っているかのように見えます。
初回からガンガンスクワット応援でカープ打線を盛り上げていきます。打線が爆発した時には1000回以上はスクワットしていることになるでしょう。カープを応援しに行くときは社会人の皆さんは必ず次の日は有給を取っておきましょう。
唯一無二のアメリカ風マスコット
カープのマスコットキャラクターはお馴染みのスラィリーです。12球団で唯一のアメリカンデザインのマスコットです。奇抜なデザインと、自由奔放な活動には目が話せないですね!
スラィリーの意味は「いたずら」という意味があります。
他のマスコットとは違い、喜怒哀楽を表情で表現できるのでかなり親近感がわくマスコットです。
スラリィーについて知りたい方はこちらのスラリィーの紹介記事で詳しく紹介しています。合わせてご覧ください。
現在のチームと今後の展望
最後にカープのこれからについて話します。現在のチーム状況を把握した上で、今後の動向から誰が未来のカープを背負っていくのかを根拠をもとに解説していきます。
現在のチーム状況
2023年シーズンの成績は以下の通り
順位 | 2位 |
勝率 | .532(2位) |
チーム打率 | .246(4位) |
防御率 | 3.20(3位) |
得点 | 493(6位) |
失点 | 82(5位) |
ここからわかることは
・投手力があるチーム
・得点力に乏しい
・打点を挙げるバッターが少ない
昨シーズンまで4年連続Bクラスのチームでした。今シーズンは床田、森下、九里、大瀬良とエース級の投手陣が勝ち星を積み重ねてくれたこと、「この試合は負けられない!」という試合を落とさず勝ったことが2位という成績になったと思います。
主力選手の紹介
投手
- 床田寛樹
- 森下暢仁
- 九里亜蓮
今シーズンはこの3人が11勝、9勝、8勝と勝ち星を挙げられたことが大きいです。カープが優勝争いをしていくには、この3人がどれだけ勝ち星を上げることができるかが鍵になってきます。優勝、日本一になるためには3人全員が2桁勝利を挙げることがマストになってきます。
野手
- 菊池涼介
- 坂倉将吾
- 小園海斗
カープがリーグ優勝したときのチームは絶対的4番、鈴木誠也の存在が大きかったです。鈴木誠也、新井貴浩と長打力のあるバッターの存在が必要です。U-24の日本代表で小園、坂倉とアジア相手に活躍を見せたように、若手の活躍が目覚ましい。
ドラフトから考える育成計画
過去3年で1位指名した選手は以下の通り
- 2020年 栗林良吏 (投手)
- 2021年 黒原拓未 (投手)
- 2022年 斉藤優汰 (投手)
19年は森下投手を1位指名しており、即戦力でローテーション入りを果たし、守護神として活躍しています。2023年のドラフトで指名された選手は以下の通り
- 常広羽也斗 投手
- 高 太一 投手
- 滝田一希 投手
- 仲田侑仁 内野手
- 赤塚健利 投手
今年だけに限らず、長い歴史の中でカープは投手力を基盤に考えています。1位で大学No.1投手の呼び声高い青山学院大学の常広投手を獲得しました。起用方法は不明だが、即戦力を期待しているに違いないです。ドラフト指名選手からもカープはどんな時代も「打ち勝つ野球」ではなく「1点を守り抜く野球」を貫いていることがわかりますね。
2024年シーズンの展望
2023年シーズンは最下位と予想した評論家が多かった中、予想を覆す2位という素晴らしい成績でシーズンを終わりました。カープの生命線は投手力です。現に守りがいいチームが勝っています。今シーズンリーグ優勝した阪神、オリックスには複数人2桁勝利を挙げる投手がいました。
野球は投手が試合の勝敗の8割を担っていると言っても過言ではありません。打力が劣っていても1点を守り抜けば試合には負けない。そんな試合を展開していくのがカープだ。今シーズンも打力は他のチームに比べて劣っていたが、投手力があったが故にAクラス入りを果たしたのだ。
まとめ
今回はカープファン、カープ女子に向けた球団紹介のコンテンツでした。この記事をきっかけにカープの歴史や今のチームがどんな状況なのか知ってもらえたらと思います。今回のまとめをすると
・カープは市民に元気と希望を届ける復興の象徴の球団
カープファンに覚えていて欲しい選手は
1・鉄人、衣笠祥雄
2・低迷期を支えた前田智徳、前田健太
3・20億を蹴り、カープ愛を愛し愛された黒田博樹
・創設26年目で優勝し2年連続日本一を達成
・日本一を達成したのは昭和が最後
・球団存続の危機を市民の募金から乗り越え今がある
・どの球団よりもファンと球団の関係性が情深い
カープといえば日本一から遠ざかっていることばかり言われますが、新井監督になりチームの指揮は高まっています。2年目こそ監督の手腕を試されるときです。今年活躍した西川選手がオリックスに移籍したことでより一層チームの真の力を試される2024年シーズンになるでしょう。
コメント