プロ野球開幕からもうすぐ3ヶ月が経とうとしています。
セ・パ交流戦も終わり、夏のオールスターゲームを迎えようとしています。
現在セ・リーグセーブ数1位を走っているのが「ハマの守護神」ことDeNAの山崎康晃投手。現在は輝かしい成績を残している山﨑投手ですが球界を代表するクローザーになるまでの物語をお伝えしていきます。
今回お伝えするのは、山﨑投手の自伝「約束の力」エピソードをもとにお伝えしていきます。この話の最後には山﨑投手のファンになる人も少なくないでしょう。それでは本題に入ります。
山﨑康晃ってどんな人?
プロ野球ファン、特にDeNAファンの方はもうご存知かとは思いますが山﨑投手の物語を話していく前にどんな人なのかについてお伝えします。
- 山﨑康晃(やまさきやすあき)
- 1992年10月2日(30歳)
- 東京都出身
- 178cm/85kg
- 帝京高校-亜細亜大学出身
- 2014年ドラフト1位入団
- 史上最年少で通算200セーブを達成
- Twitterフォロワー数79万人
今では「ハマの守護神」で球界を代表するクローザーへと成長を遂げた山﨑投手。しかし、高校時代は3番手の投手。プロ志望届を出すも指名漏れ。など数々の苦悩と葛藤を乗り越えてきた選手です。
現在の成績
23年シーズンの6月18日(日)時点の成績は以下の通りです。
- セーブ数 16 (リーグ1位)
- 防御率 4.50
とすばらしい成績をシーズン前半から残しています。チームとしてもリーグ1位をキープしています。
今回は選手の特徴や山﨑投手の特徴は省略しますが以下のコンテンツで山﨑投手を取り上げているのでどんな投手か知りたい方はぜひご覧ください。
現在に至るまで
ここからは現在の山﨑投手が活躍するまでの知られざる裏のビハインドストーリーについてご紹介していこうと思います。
自分の野球人生と照らし合わせてみるといいでしょう。
少年時代
山﨑投手は2つ上の姉とよく外で遊ぶよくいるやんちゃな少年!父が草野球をしていてグランドによく連れて行ってもらっていたそうだ。
近所には元プロ野球選手、当時日本ハムでプレーしていた森本稀哲さんが近所に住んでいて親同士が仲よかったこともあり、2軍のグランドや東京ドームの球場内を案内してもらったりしていたそうだ。
小さい頃か野球が生活に欠かせない存在になっていたのだろう。
幸せの時間も束の間、親が離婚し母子家庭に。。。
それから父の草野球には行けなくなり、母は朝から晩まで働き詰めに、「お母さんはいつ寝ているのだろう?」と当時、小学生にもなっていない山﨑投手は思ったそうだ。
小学4年生の頃、普段は運動もしない母が一度だけキャッチボールに付き合ってくれたが一生忘れられないキャッチボールになっている。
小学生の時は父が監督を務める野球チームに所属。
当時は外野だったが、ピッチャーがしたくて練習が終わってから毎日、父と練習をしていたのだ。
コントロールが悪かったため、時間があれば近所の公園で壁当てをしていたそうだ。
僕自身も小学6年生から母子家庭で育ったので、母1人で育ち盛りの2人の兄弟を育てるために朝から晩まで働いていた時、僕も感じていました。いつもは元気で兄弟2人を支えてくれていた母が夜遅くに帰ってきてぐったりと疲れて帰ってきた母の姿を見たのは今でも鮮明に覚えています。
本気で辞めたいと思った帝京高校時代
『帝京に行きます!僕は帝京のタテジマを着たいんです!」
中学の進路相談の時に担任の先生にはっきりとそう言ったのだ。
帝京に入るきっかけは幼少期の頃から森本稀哲さんの影響が大きかったようだ。
当時小学1年の頃に稀哲さんが甲子園に出場した姿を見て憧れを抱いたようだ。
少年の頃に「東京で1番強いチームは帝京!」憧れの高校でタテジマのユニホームを着て甲子園のマウンドで投げることを目標に練習に励んでいたのだ。
入学して間もない頃に私立の洗礼を浴びたのだ。
レベルの高さ、先輩への礼儀作法やマナー、当時は敬語もろくに使えなかったそうだ。
同級生、1つ下の代には「コイツ、すげえ!」と思うようなライバルが何人もいたのだ。
球速は140キロ以上を計測をするも、体が細く、簡単に打たれていたみたいだ。当時は変化球を一切投げていなかった。
当時は何かライバルたちとは違う変化球を投げようと思い最初に習得したのが「ナックル」だったみたいだ。
しかし、高校2年時に勉強と野球の両立の壁に打ちあった。「野球を辞めたい。」と本気と口にしたのだ。
家に帰ると親に「辞める!」の一点張り。
離婚して毎日朝から働いていた母が泣き言もこぼさず、涙を流さなかった母が初めて涙を流したのだ。
翌朝、無理やりタクシーに連れ込み帝京高校の校門前で降りた。
校門前には監督とチームメイト全員が待ってくれた。そこでもう一度、野球と向き合う決意をしたのだった。
高校3年の最後の夏の大会では背番号『1』しかし、周りは「なんで山﨑が?」と思っていたみたいだ。
しかし、試合になれば最後まで3番手で引退したのだ。
華やかなドラフト会議
2つ上の代の先輩や憧れの稀哲さんが帝京高校からプロに入っている。
「僕も、ここからプロ野球選手になりたい」そんな夢、いや、明確な目標を抱いていた。何より、高校からプロに行って、家族を養いたい想いが強かった。
でも、母には内緒で、指名漏れをした時のために柔道整復師になるための学校の資料請求もしていたのだ。
高校で指名漏れだったら選手としては踏ん切りをつけて野球に携わる仕事をするためのーそんな心の準備していたのだった。
ドラフト当日、山﨑投手の指名はなかった。。。
覚醒した亜細亜大時代
ドラフト会議翌日、監督と進路面談で「亜細亜大学」を推薦された。
当時、高校からプロに行くことしか考えていなかった山﨑投手は全く知らなかったそうだ。
「4年後、必ずドラフト1位でプロ野球に入る」
夢破れた次の日には新たな目標に進んでいた。
練習初日から監督に堂々と「僕は4年後、必ずプロに行きたいです!」と宣言していたようだ。
入学してから連日ブルペンで200球以上の投げ込み、体も高校時代から一回り大きくなった。
亜細亜大伝統の言葉では表せないくらいのきついトレーニングメニューもこなし、ますます、山﨑投手は成長を遂げていった。
リーグ戦で1アウト満塁の場面でリリーフで登板し見事0点で抑えた成功体験が今のポジションでもある「抑え」の仕事との出会いだったそうだ。
全日本大学選抜にも選ばれ、日米野球にも参加。
3年時には全日本大学選手権で抑えでマウンドに上がり、優勝投手になった。
山崎康晃にとって『2度目』のドラフト
2014年10月23日。大学最後の試合を迎えることなく、ついに運命の日が来た。試合後に行われた会議で見事、DeNAから1位指名をいただいた。
結果的には亜細亜大でプレーできたことが幸運だったと語る。4年後の時を経て、「母との約束」を果たせたのだった。
当時の監督の証言
帝京高校 前田監督
『エースと認めた理由』
山﨑を見た時は球が速く、キレがあるけど体が細すぎて球が軽く決定的なダメージを受けやすい。
外野で使いたいが力がないから打てない。そんな選手でした。運命の別れ目の出来事は高校2年の時。
野球と勉強の両立の壁にぶつかり練習に参加せずに帰宅した時のこと。翌日、お母さんが無理矢理登校させてその日の夕方3人で話しました。その時のお母さんの言葉は今でも覚えています。
「この子が野球を辞めたら、私は生きていく目標がなくなります。この子がいるから、私は頑張れるんです。」
黙っていた山﨑が「頑張る」と一言つぶやいたのです。それから少しずつ変わっていきました。
「プロ野球選手になって、家を助ける。」
と目標を定めて、覚悟を決めたのがわかりました。
最後の夏、山﨑の先発で負けましたが、その起用に悔いはありませんでした。
背番号1が打たれたら仕方がない、そう思わせるだけの努力をしてきた。監督としてそう認めてのエース。
亜細亜大でエース格の投手になり、自信を持った高校時代とは目が違った。
教員免許を取得したことを知って、感動と驚愕でした。
山﨑は家庭環境にも負けず、それを克服し、夢を諦めずに努力で心と体を作ってプロで活躍している。
その根底にあるのは「野球が好きだ」という純粋な気持ちでしょう。
自分に足りないものを補おうとするその意欲は本当に立派
亜細亜大学 生田監督
『ドラ1の約束』
ドラフトが終わった数日後、練習に参加に訪れた第一印象は「ああ、こんなに気持ちの弱そうな子はすぐに辞めるだろうな」
直感でそう思ったものです。
ブルペンでの山﨑のピッチングをみて驚きました。
なぜ、こんなにいいピッチャーをプロは指名しなかったのか。
指名漏れがよほど悔しかったのでしょう。
泣きながらピッチングをしていました。練習終わりに「俺は、キツイし厳しいぞ。頑張れるか?」
「はい!」元気な声で返事をした山﨑を信じることにしました。
「俺が必ずドラフト1位にしてやる。これは男の約束だ。辞めるなよ。俺について来い。」
この時交わした約束を4年間忘れたことはありませんでした。
山﨑が、4年間、死に物狂いで頑張れたのは、家庭環境が大きく影響していると思います。
「どんなことがあっても、プロに行きたい」というハングリーさが違いました。周りからチヤホヤされても父親がわりに私だけは厳しくしました。
ドラフト1位指名された時、私の責任は終わった。プロ野球で活躍していますが抑えた、打たれたの結果で評価をしようとは思いません。
それよりも1年目のシーズン、試合が終わった後でベンチでゴミ拾いをしている報道を見て改めてこの子を4年間預かってよかったなと思ったものです。これからも、たくさんの子供たちに夢を与えられるよう、責任を持って頑張って欲しいです。
ドラフト1位以外はプロに行かせない、という私との約束を山﨑は信じてくれた。
背番号『19』のルーツ
背番号『19』はどういった経緯で決まったのか?
それは山﨑投手が大学時代、丸坊主だったことから、一休さんの19にすればと話が進んだようだ。
1番最初に当時の監督:中畑監督につけられたあだ名は「ハマのお坊さん」だったようだ。
ヤスアキJUMPについて
2015年途中から始まった。登場曲「ゾンビ・ネーション」に合わせた冒頭に”ヤスアキコール”と、ファンの方たちがジャンプしてくれるようになったのがきっかけ。マウンドに上がる僕の力の源。
「野球はメンタルのスポーツ」と語っている山﨑投手。ファンの声援がその日の調子を引き上げてくれるのを感じているようだ。マウンドに向かいながら、グングン気持ちが上がっていく。とにかく、本当に気持ちがいいようだ。
ビジターの試合で登場曲が流れれなくてもジャンプしてくれるファンもいてファンの気持ちが心から嬉しいみたいだ。その気持ちをファンが待っている結果で恩返しすると心に誓っている。
まとめ
山﨑投手の現在とルーツについていかがだったでしょうか?
今、活躍してる選手は山﨑投手に限らず、必ず、陽の目を浴びるまでに何十年も前から裏のビハインドの物語があるのです。
今は、プロ野球界もスキャンダルなど問題が出てきていますが山﨑投手のようなプロ野球選手が多くのファンに勇気を与え、そしてこどもたちに夢を与えてほしいと思います。
シーズンも後半に入り、いよいよ本格的な順位争いが始まります。そんなプレッシャーの中、山﨑投手の力になるのは『ファンの声援』です。
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