BB-Lab.

プロ野球

ベーブルース何がすごい?大谷翔平とどっちがすごい?野球の神様の歴史を紐解く

この記事では野球界の偉人について紹介するシリーズです。
第3回となる今回は野球の神様・ベーブ・ルースについてこれまでの功績について話していきます。

2024年シーズン、ドジャースでプレーする大谷翔平が全人未到のホームラン50本、盗塁50個を達成しました。

ファンの中には「ベーブルースと大谷翔平ってどっちがすごいの?」と思いますよね。

この記事で得られること以下の通り

  • ベーブルースの生い立ち
  • ベーブルースの現役時代の成績と伝説
  • 大谷翔平の生い立ち
  • 大谷翔平の成績と伝説
  • ベーブルースと大谷翔平の成績を徹底比較

なぜベーブ・ルースが「野球の神様」と野球のファンから讃えれているのか、大谷翔平とどっちがすごいのかがわかる内容です。

ベーブルースの生い立ち

ベーブ・ルースの簡単な経歴は以下の通りです

  • 本名ジョージ・ハーマン・ベーブ・ルース・Jr
  • 1895年2月6日生まれ
  • アメリカメリーランド州ボルチモア出身
  • メジャーで22年間プレー
  • 左投げ/左打ち
  • 野球界で最も偉大な選手と評されている
  • 53歳という短命でこの世を去っている

また、ベーブ・ルースが童顔だったことからニックネームは「バンビーノ」「ベーブ」の愛称で愛されていました。

プロ入り前〜悪童から神父との出逢い〜

ベーブ・ルースの家族は9人兄弟でしたが、うち、成人できたのはベーブと5つ年下の妹マミーだけ。

父は自営業の酒場を切り盛りする毎日で酒場の営業が忙しく、子供達の世話はしていませんでした。

母は病弱でベーブ・ルースが15歳の時に結核で亡くなり、父もベーブ・ルースが23歳の時に亡くしています。

そのため、ベーブ・ルースは家庭内で当たり前に行われている教育が皆無。

町の不良少年となってしまいます。

勉強もろくにすることなく、近所の不良たちと喧嘩に明け暮れる毎日で他にも万引き、飲酒、喫煙、など悪童の道へ突き進みます。

そんなベーブ・ルースは誰の手にもつけられなくなり、孤児院へいくことになります。

そこで出会った、教官でもあり、神父との出逢いこそがベーブ・ルースを野球の道へと導くことになります。

これこそがベーブ・ルースにとって人生の決定的な影響をもたらしました。

プロ入り〜孤児院からメジャーへ〜

ベーブ・ルースは教官から野球を教わりどんどん上達していきます。

当時、ベーブルースは孤児院を出て仕立て屋になる予定でした。

19歳のとき、偶然試合を観に来たメジャーリーグの投手の目に留まりボルチモア・オリオールズのオーナー兼監督にご紹介され、ベーブ・ルースの練習を観てすぐにプロ契約を結びました

メジャーデビュー〜世間知らずの少年〜

プロ入り後、チームメイトと合流するとチームメイトからは赤ちゃんと揶揄する意味で「ベーブ」のあだ名をつけられます。
孤児院では外部から隔離された生活がとても長く世間知らずの子供染みた様子からチームメイトはそう名付けたのでしょう。

メジャーデビューは1914年、当時所属していたレッドソックスはスターティングメンバーにスター選手がずらりと並ぶ強豪チームでデビューしてまもなくマイナー行きとなります。

ピッチャーで貢献できないなら打者として貢献しようと思いバッティング練習に励みます。

バットを折られるなどの嫌がらせを受け終いには倉庫に眠っている、古いバットを探しては手に取り練習を続け、その努力も実り、翌年に再びメジャーに昇格を果たし、先発ローテーションの一角を任されます。

18勝をマークし、打率.315、4本塁打を放つ活躍を見せます。1918年にメジャー初唯一の2桁勝利・2桁本塁打の偉業を成し遂げました。

のちに104年を経てエンゼルス・大谷翔平が成し遂げることになります。

ヤンキース〜野球人生の黄金期〜

その後、1919年から1934年の15年間をニューヨーク・ヤンキースでプレーします。

ベーブ・ルースは伝説のような成績を難なく成し遂げていきます。

特に黄金期と呼ばれた21年〜28年の7年間をピックアップしていきます。

21年シーズン

  • 打率.378
  • 59本塁打
  • チーム初のリーグ優勝に貢献

当時のルールと現行のルールは異なり、現行のルールだとなんと104本塁打を放っていた計算になるとか!

22年シーズン

キャプテンに就任するも審判の判定に納得がいかないと泥を投げるなどの不祥事によりキャプテンをシーズン始まって1ヶ月も経たないうちに剥奪。

  • 打率.315
  • 35本塁打
  • 99打点

しかし、敵チームは分析にプレーオフでは「全球カーブ作戦」を決行し、敵チームの作戦に見事ハマり2安打に抑えられる大不振に陥る。

23年シーズン

  • 打率.393
  • 41本塁打

とこの年も猛打が炸裂し、さらにプレーオフでは2年間の鬱憤を晴らすかのような脅威的な成績で圧倒します。

  • 打率.368
  • 3本塁打
  • 長打率1.00

覚醒を遂げ、チーム初となるワールドチャンピオンの優勝メンバーとなります。

24年シーズン

ベーブ・ルースは衰えることを知らず次々と過去の成績を塗り替えていきます。

  • 打率.378(首位打者)
  • 46本塁打(両リーグ1位)
  • 121打点

惜しくも打点で2位となりましたが、三冠王級の活躍と成績を残しています。

25年シーズン

この年はベーブ・ルース自身自己ワーストの成績に終わります。

  • 打率.290
  • 25本塁打

練習に打ち込むことができず試合前にホットドックを食べたり、炭酸ジュースを飲んだりチームのはみ出し者で性病やアルーコール依存症になるなど、生活面でも乱れがあったシーズンでした。

26年シーズン

昨シーズンの悪習慣を改め、再び野球に打ち込むようになります。

  • 打率.372
  • 47本塁打
  • 146打点

チームをリーグ優勝に導く活躍を果たし、結果だけではなく、ベーブ・ルースの野球に対する取り組みがチームにいい影響を与えたこと間違いなし。

27年シーズン

この年のヤンキースは「殺人打線」と呼ばれるほどの脅威の打線でした。

リーグ記録になるシーズン110勝を達成、さらに2位のチームと19ゲーム差をつけて優勝するなどの圧倒的な力を見せつけます。

  • 打率.356
  • 60本塁打
  • 164打点

自身4度目の本塁打記録を更新、ワールドシリーズでも4連勝負けなしでワールドシリーズチャンピオンになり圧巻のシーズンとなりました。

28年シーズン

自身4度目となる50本塁打を達成、2年連続でワールドシリーズ4連勝で優勝に輝きました。

ベーブ・ルースの功績と伝説

ここまでの数字を元にお話ししてどれだけの素晴らしい成績を残してきたのかお分かりいただけたかと思います。

ベーブ・ルースが最初に所属していたレッドソックスの時、デッドボールと呼ばれる「飛ばないボール」時代にベーブ・ルースは飛距離の長いホームランを打ち投手としても名声を築いていたのです。
 投手としては2度のシーズン23勝を挙げています。

  • レッドソックス在籍時は3度のワールドシリーズチャンピオンを経験
  • ヤンキース在籍した15年間で7度のリーグ優勝
  • 4度のワールドシリーズチャンピオンを経験
  • 自身で何回も本塁打記録を更新し、最多の60本塁打を更新

生涯通算で

  • 714本塁打
  • 2213打点
  • 2062四死球
  • ホームラン王12回

と野球の神様に相応しい記録を残してきました。
ベーブ・ルースがこの世を去った今でも現代の人に讃えられアメリカ国民のヒーローであり2018年には大統領自由勲章を追贈されています。

伝説その1ギネス世界記録の世界一高いバット

当時ヤンキースは自軍の本拠地を持っておらず1923年に「ルースが建てた家」と呼ばれた球場で記念すべき第一号のホームランを放ったのがベーブ・ルースで、この時に使ったバットが12,565,000ドルで落札されました。

世界一高いバットでギネス世界記録にもなっており、日本円で約18億4,705万5,000円になります。

伝説その2予告ホームラン

ベーブ・ルースはシーズン中の試合で打席に入り、構える前に外野フェンスを指差し「あそこに打つ」と言わんばかりの宣言をした時、なんと打球はバックスリーンへ一直線のホームラン。

なんとこれを行った時のベーブ・ルースは37歳ですでに黄金期が終わり、体が衰えていった時期だったのにも関わらず伝説を残しました。

伝説その3子供好きなベーブ・ルース

ベーブ・ルースは子供好きでも有名で子供達のストーリーを5つ紹介していきます。
子供に優しかったのはベーブ・ルース自身が子供時代、不良少年という生い立ちが深く関係しています。

チケットを買えない2人の少年

お金がなく、球場の入場券を買えず立ち尽くしている少年をみたベーブ・ルースは係員に札束を渡し「買ってやれ」と促し、おかげで2人の少年は球場でベーブ・ルースのプレーを観ることができました。

少年の犬

ある試合でベーブ・ルースが打った打球が観にきていた少年の連れてきた犬に直撃し、それを知ったベーブ・ルースはすぐに身元を調べお見舞いに行きました。

約束のホームラン

ある少年が落馬が原因で亡くなってしまいます。
大ファンだったため両親が無理を承知でヤンキースに連絡しチームはワールドシリーズを戦っている真っ最中です。にも関わらず、ヤンキースのメンバーのサインボールと

「水曜日の試合で君のためにホームランを打つ。」

と書かれたサインボールが送られてきて、水曜日の試合で3本のホームランを放ち、これは「約束のホームラン」と伝記されている。

ゴルフ場にいた少年

シーズンオフにチームメイトとゴルフを楽しんでいたのを入場のところから眺めている少年たちに気付き少年たちを誘って一緒にラウンドを回り、ジュースやお菓子を振る舞ったそうだ。

子供達のヒーローであるために

ヤンキースの25年シーズン。かなり悪習慣により成績を落としたベーブ・ルース。
パーティーで同席だったニューヨーク市長ジミー・ウォーカーに

「国中の子供たちがラジオに耳を押し付けて、君を英雄のように思いながら君のプレイを楽しみにしているんだ。その英雄がこんなだらしない体で、子供たちを失望させていいのか」

詰問された時、涙を流し、それからシーズンが始まる前のキャンプから態度を改めヒーローに相応しいプレーを再びするようになりました。

大谷翔平の生い立ち

次は現代の野球の神様、大谷翔平のこれまでの人生を振り返っていきます。

  • 1994年7月5日生まれ
  • 岩手県奥州市出身
  • 三兄弟の末っ子
  • 7歳上の兄・龍太さん現:トヨタ自動車野球部
  • 名前の由来は源義経の八艘(はっそう)飛びのイメージから”翔”と平泉の”平”

母・加代子さんが元バドミントンの選手もあったことから、幼少期からバドミントン、水泳を始めた後に野球を始めます。

小学校時代〜水沢リトルリーグ〜

大谷選手は小学3年生の時、水沢リトルリーグで野球を始めます。

リトルリーグ時代、

  • 小学5年生で球速110キロをマーク
  • 6イニング制で1試合17奪三振を記録
  • 6年生時には球速120キロをマーク
  • 小学生の時点で身長は167センチ
  • 小学時代から全国大会出場を経験

中学生にも劣らない身体になっていました。

中学時代〜一関リトルシニア〜

中学校は父がコーチを務める一関リトルシニアでプレーをします。

中学生の頃から、バッティングで「引きつけながらホームランを打つ」意識で取り組んでいたそうです。

この意識は今のバッティングスタイルにも繋がる部分はあり、今のフォームにも影響しているように見受けられます。

  • 球速130キロをマーク
  • あまりの速さにキャッチャーがまともに捕れない
  • 身長180センチ
  • 体格はすでに高校球児にも劣らない選手になる

高校時代〜花巻東高校からプロ入りまで〜

高校は地元の強豪校、花巻東高校に入学します。

  • 1年生の時点で休息は147キロをマーク
  • 1年の秋からエースナンバーを背負う
  • 2年の夏に甲子園出場
  • 2年の春時点で通算25本塁打・球速150キロをマーク
  • 3年の春、甲子園で藤浪晋太郎率いる大阪桐蔭に大敗
  • 3年の県予選で160キロをマーク、予選敗退
  • 高校通算56本塁打
  • 進路でMLB志望でメディアが取り上げ世間の話題になる
  • 北海道日本ハムファイターズが単独指名、球団側のラブコールの末、入団を決める

NPB時代〜日本ハムファイターズ〜

  • プロ入り2年目で史上初の2桁勝利・2桁本塁打を成し遂げる
  • 3年連続で2桁勝利を収める
  • 4年目には日本一を達成し、MVPを獲得
  • 5年目には投手部門の最多勝利、最優秀防御率、最高勝率に輝く
  • 5年目のシーズンオフにロサンゼルス・エンゼルスに移籍

MLB時代〜エンゼルス→ドジャース〜

ここからはアメリカに渡米してからの凄まじい記録つくしのキャリアを紹介します。

  • 1年目から新人王を獲得
  • 2年目は怪我で野手に専念も成績は低迷
  • 3年目は返り咲きシーズン46本の本塁打、9勝をマーク、ア・リーグMVPに輝く
  • 4年目は本塁打34本、15勝をマーク109年ぶりの2桁本塁打・2桁勝利を達成
  • 5年目は本塁打44本、10勝をマーク、2年連続2桁本塁打・2桁勝利を達成
  • 2023年に開催されたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本代表としてチームを優勝に導く。
  • メジャー6年目にドジャースに移籍前人未到の本塁打50本・盗塁50個を記録
  • ナショナルリーグ西地区優勝の立役者となる

大谷翔平の功績と伝説

ここからは大谷翔平ならではの伝説、珍事をご紹介します。

バッティング信号機を破壊

中学時代、バッティング練習で柵越えを連発し、なんと信号機に直撃し、破壊しました。

グランドの外野フェンスは10メートル以上するグランドが大半です。

そのフェンスを通り越し、さらには信号機に直撃するという珍事件を中学時代に犯しています。

人生で犯した一番悪い罪は甘いもの、脂っこいものを食べたこと

高校時代、毎日ご飯10杯を食べるルールの中、当時ガリガリだった大谷翔平のノルマは13杯でした。

学校近くのラーメン店では、一人チャーシューがのった肉丼を食べていたそうです。

ラーメン屋に行ってラーメンを食べない珍事もあったそうです。

プロ入りごも食事を徹底管理しており、これまで犯した一番悪い罪を聞かれた際に「甘いもの、脂っこいものを食べたこと」と答えています。

2024年3月に侍ジャパンが世界一に輝いたWBCの開催期間中、大谷翔平はゆで卵を1日16個食べていました。

サンディエゴ・パドレスで現役を続け、日米通算200勝を達成したダルビッシュ有も大谷翔平の徹底した管理ぶりをみて、関心するどころかメモを取っていたそうです。

大谷ルールを作る

アメリカで二刀流として活躍する大谷翔平、2023年にプロ野球で大谷ルールが作られます。

これまでは投手の代わりに違う選手が打撃を担当するという原則でしたが、大谷ルールで同一選手が投手と指名打者の両方に指定されることが可能になりました。

このルールはまさに大谷選手のような打者と投手を担う二刀流でプレーする選手がもっと活躍するためのルールです。

このルールがプロ野球にも導入されたことによって、より二刀流でプレーして自分の可能性に挑戦する選手のために設けられました。

詳しくは大谷ルールをわかりやすく解説をご覧ください。

水原事件・巨額の窃盗事件に遭う

どれだけ大金を稼ぎ出しても物欲がないと公言していた大谷翔平はプロ入り後しばらくは両親が収入を管理し、毎月10万円のお小遣いで生活しお金を使う機会がほとんどなく、貯まる一方でした。

お金の無頓着さが水原事件につながったと考えられる。

アメリカに渡米した際、通訳として練習相手なども買って出た水原一平氏が26億円4000万もの大金が銀行口座から不正送金されていた、水原事件の被害者になってしまいました。

そのことに大谷翔平は気づいていなかった。

慈善事業へ桁外れの寄付金

メジャー6年目にエンゼルスからドジャースに移籍をしました。

移籍して間も無く、アメリカの慈善団体に約10億円を寄付します。

さらに2024年1月には石川県能登半島地震で被災地支援で役1億4000万円を寄付しました。

また、日本国内の全小学校2万校に大谷翔平が使用している同じモデルのグローブを3個ずつ寄贈して、将来の野球発展のために、現役を続けらながら大きく貢献しています。

ベーブルースと大谷翔平を比較

ここまででベーブルースと大谷翔平の生い立ちから現役時代の成績と数々の伝説を話してきました。

結論、どちらも人間離れした偉業を成し遂げた素晴らしい野球選手です。

ここで話が終わっては面白くないですよね。

ベーブルースと大谷翔平を心と技の2つの観点からどちらがすごいのか見ていきましょう。

心・人間性

心、メンタル面は大谷が優勢だと言わざるを得ないでしょう。

日本人がアメリカの地で活躍し、賞賛を浴びているところを見て、誰もが日本の宝だと思うはずです。

学生時代から真摯に野球に向き合い、これまでの人生全て野球に費やしてきたと言っても過言ではない。

伊藤園をはじめとする大企業が大谷翔平と巨額のスポンサー契約を結んでいることもどれだけ素晴らしい人間性の持ち主かがわかる材料です。

ベーブルースも人間性の面で劣っているわけではありません。

大谷翔平が聖人の域にいるので、劣って見えてしまうのは当然です。

ベーブルースは生きていくのがやっとの環境で育ち、野球の練習をしようとしても嫌がらせを受けて充実した環境で野球はできていません。

それでもメジャーの球団と契約を結び、野球の神様と呼ばれるほどの成績絶大な影響力を持ちました。

野球に身が入らない時期もありましたが、市長の声を聞き、大好きな子どもたちの憧れの的になるべく再び野球を頑張りました。

当時、本拠地を持っていないヤンキースにヤンキースタジアムを設立したのも当時、現役だったベーブルースです。

技術

野球の技術に関しては両者引けを取らずですが、成績、数字で見るとベーブルースが一枚上手です。

感情を優先すると大谷翔平に決まっているじゃないか!と思う方もいるので、数字で判断します。

それぞれのキャリアハイの成績を横並びで比較してみましょう。

ベーブルース大谷翔平
打率.378.309
本塁打60本54
打点171130
防御率1.75.233
勝利数2415
奪三振170219

6つの部門のうち、ベーブルースが5つで大谷翔平のハイキャリアを上回っていることから技術面ではベーブルースが優勢です。

まとめ

いかだったでしょうか?
野球の神様ことベーブルースの功績を大谷翔平と比較してみました。

ベーブ・ルースが野球少年の的であり続け、大谷翔平が不可能と思われたことを成し遂げていくでしょう。

複雑な環境下で育った幼少期、世間知らずの少年がグランドで圧巻のプレーをしてきたのです。

それに比べると大谷翔平は温室育ちと思われるでしょう。

現役ですごい数字を残してきた選手は沢山いますが、ベーブ・ルースのように後世の野球ファンに語り継がれることはありません。

プレーの成績はもちろんですが、それだけではなく子供たち、アメリカ国民のヒーローであり続けて現代でも語り継がれる選手だったことが素晴らしいです。

コメント

この記事へのコメントはありません。

RELATED

PAGE TOP