今回、改めてこのオウンドメディアを運営していくに当たり、自分が何者なのか、どういった想いで野球の発信をしているのかについて話して行きたいと思います。
野球に出会ったきっかけ
私が野球と出会ったのは小学校に入学した頃でした。幼稚園の頃から仲の良かった友達のお兄ちゃんが地元の少年野球に入って野球をしていてそこで野球を知りました。
二人兄弟で僕は4つ上の兄がいます。兄は小学1年から剣道をしていました。毎週月・水・金が剣道の稽古があり母と小学校の体育館に行ってましたが兄の剣道には興味がなく、グランドであっていた少年野球の練習をずっと見ていました。
家ではプロ野球のシーズン中は決まって夜は地元球団のホークス戦を観ながら家族と晩御飯を食べていました。1年に1回は当時はヤフードーム現:PayPayドームで観戦していました。仲の良かった友達が兄の影響で野球チームに入ると言ってその日学校が終わってお母さんに
「〇〇君が野球チームに入るって!俺も野球やりたい!」
と言ってお父さんにスポーツ用品店 DEPOに連れて行ってもらい、SSKのグローブと青いバットを買ってもらったことは今でも鮮明に覚えています。グローブが手に馴染むように毎日公園の公衆トイレに向かって壁当てをしていました。そして、小学2年の10月に友達に続くように地元の少年野球チームに入団しました。
これまでの野球人生について
簡単に僕のこれまでの野球人生を駆け足で振り返っていきたいと思います。
少年野球
小学2年〜地元の少年野球チームに入団〜
投げるのは得意ではなく、捕ることと同級生のなかで少し身体が大きく理由でファーストを守る。
初めての公式戦では監督のサイン「待て」を見落として初打席でランニングホームランを打ってベンチに帰っても歓迎ムードではなくサインの確認をしていました。笑
小学4年〜6年
- 4年生以下の福岡県一番を決める大会で優勝
- ホークスの2軍球場があった雁ノ巣球場で行われる大会
- ポジションはセカンド→サード兼ピッチャーへと転向
- 5年生なると6年生が4人しかいないこともありサードでレギュラーで試合に出る
- 第17回全九州学童軟式野球西都原大会で優勝を飾る
- 6年時には副キャプテンを務める
- チームは西日本全国大会に出場
- 全国優勝常連の大阪代表・長曾根ストロングスと対戦し8−0でコールド負けを喫する。
中学野球
- 中学は硬式のクラブチームには入らず、中学の部活動で野球をする
- 1年の夏から中体連の試合に出場する
- 3年生が引退と同時にサードからキャッチャーに転向
- 3年時には主将を務める。
- 最高成績は市内大会優勝、地区大会出場。
- 夏の中体連は市内大会2回戦で敗退
- 福岡選抜の入団テストに受けるも不合格。
私には無縁と思っていたキャッチャーに転向したことが野球人生のターニングポイントと言っても過言はないくらい野球人生が大きく変わった時でした。
高校野球
進路は県外の甲子園に出てた高校からも声が掛かったが県内の工業高校にスポーツ推薦で入学。高校入学当初から希望ポジションはキャッチャー一筋。ポジションが決まっていない中、入学前に硬式ミットを買って練習に参加していた。高校2年ではコロナ禍で春の大会、夏の全国大会が中止に。
3年時には副キャプテンを務める。新チーム当初は下位打線でランナーが出れば「バント」が出される俗にいう「バント要員」。レギュラーの中で打率最下位。悔しさを噛み締め、一冬明けると4月に公式戦2試合連続ホームランを含むホームラン3本出るなどの成長を遂げて春の大会からクリーンアップを任される。
夏の大会では「4番・キャッチャー」で出場。
2021年7月18日大会最長イニング延長11回の末、戸畑高校に4ー3で敗退。
県ベスト32で高校野球を引退。
大会が終わり、大学からも声が掛かったが就職を決めており高校野球で現役を終える。
高校通算4本。うち公式戦2本、練習試合2本。野球歴は10年。
野球が自分を変えてくれた体験談
小学2年から高校3年までの10年間で野球が僕を変えてくれたことは多々あります。
一番は母を感動させて来たことです。
小学5年生頃から野球肘や中学では剥離骨折など故障が多く、よく病院に通っていて、練習終わりには整骨院に行って身体のケアをしていました。
あの時はいつもお母さんに申し訳ない気持ちがありました。
”グランドでプレーしてお母さんを喜ばせたい”気持ちで練習に励んでいました。
小学6年生の全国大会行きを決める決勝戦で僕は当時右肘の骨が欠けており、試合にスタメンで出場できていませんでした。
2ー1で迎えた最終回。1アウト三塁のチャンスで代打で出場。
初球をライト前に運び同点。
塁上でガッツポーズした時にスタンドで応援している保護者が盛り上がっている中、母が1人泣いているのが目に焼き付いています。
中学、高校では毎週試合の日には学校まで送迎してくれて帰りの車では
「相手ピッチャー凄かったね!」「今日のバッティング良かった!」と野球の話をしてていつも楽しそうに話してて野球を見るのが好きだったんだなと思います。
高校の夏の全国大会の予選で敗退した時にも母は僕に
「本当に楽しかったよ!」「一番近くで応援できて幸せだった!」
と言ってくれました。
僕にとって小学生の頃から母を喜ばせたい気持ちは頑張る原動力でした。
野球を通して人として成長したと思います。
家族だけではなく、地元の少年野球の頃から地域の保護者や指導して下さった監督・コーチ、対戦する相手チームの選手などたくさんの人と出会い、その中で成長できたと思います。
野球は団体スポーツです。
地域の人たちが集まり、道具を揃えたり、試合の遠征など野球ができること自体尊い。
グランドでプレーできることに感謝したり、お父さんが買ってくれたグローブや道具を大事に使う人として大事なことを野球を通して学びました。
苦しくても我慢してやり続ける力、僕の人生は野球無しには語れないそのくらい野球が人生の大半を占めています。
これまでの野球人生について
ここまでの私の歩んできた野球人生をはや足で話しましたが、私立の特待も断り、地元の工業高校へ進学しました。
甲子園に出たスター選手でもなかったです。
野球エリートの街道を歩んできたわけではありません。
他の人よりバッティングで遠くに飛ばせてヒットが打てたわけでもありません。
足も速くなく、肩も強かったわけではないです。
小学生の時は3大会連続ノーヒットという悔しい経験もしています。
中学でもグランドなどには恵まれてはいましたが、自分たちの代は8人で一個上の先輩たちは4人。
一個下も4人しかおらず常に12人で練習、試合をしていました。
初心者が2人いて、戦力に恵まれていたわけでもなかったです。
人数が少ないぶん、試合会場の設営や試合会場での道具の運搬はみんなで協力してやってました。
高校はいい選手が集まってはいましたが、それでも近くには甲子園に出た強豪校がいて試合をすると必ずホームランを打たれて負けていました。
高校1年の新チームスタート時はキャッチャーでも先輩の球を毎試合のように後ろに逸らしてキャッチャーをクビになるのではないかと不安な気持ちでグランドに向かっていたこともありました。
こんな野球人生から何を私は得たのか?
常にその状況で常に上手くなれるか、相手に勝てるようになるのか?
ずっと思考をしていました。上手くなるために、自信を持ってグランドでプレーするために自分なりに工夫をして練習をしてきた自負があります。
常に挑戦者で失うものは何もなく常に変わる勇気を持つことができました。
この10年の野球人生で積み重ねてきたものは、環境を言い訳にしない自責の心と負けてたまるか!という反抗心というの財産を得たと思っています。
また、少年野球時代でコーチのミーティングで「〇〇の誰にも負けないところはココだ!」と言われたことがありました。
その時に私だけ野球のプレー、技術ではなく「野球に対する情熱はお前は誰よりも負けない」と言われ今でも覚えています。
当時は技術面で何か強みが欲しかった、自信が欲しかったので悔しいなと思っていました。
しかし、捉え方を変えると私の野球に対する情熱とは野球を引退した後の今でもあり、一生の強みを持っているとポジティブに捉えています。
技術は引退したら残りませんが、この熱量、想いの強さは現役を退いても変わることはありません。
なぜ野球のオウンドメディアをやろうと思ったのか
ここまで僕がどんな野球人生を歩んできたか少しはわかって頂けたかと思います。
そんな僕が野球のオウンドメディアをやろうと思ったのか。理由は2つあります。
1つ目は野球が大好きだから。
2つ目はメディアを通して野球を観る人、する人全てに”気づき”と”楽しさ”を届けたいという想いがあるからです。
野球が大好きなのは野球を辞めてグランドから離れた今でも野球が好きです。
現役時代は野球のことをずっと考えて生活したり寝るときはボールを握って寝てたりもしていました。
現在、SNSやYouTubeで野球の発信は多くの方がされています。
ファインプレー集や野球選手のおもしろエピソード、技術に関する情報が多いです。
僕には僕の野球の発信の仕方があると思っていて、キャッチャーを中高やり続けていたこともあり試合展開やバッターやピッチャーの特徴を観察することが好きでした。
18.44mの間で行われている駆け引き、プレーの裏側に隠されたデータや情報を発信し、より深く野球を知り、気づき、そして、もっと楽しく野球をプレーしてほしい、観てほしいと思っています。
また、野球の楽しさや難しさの両方を感じて来ました。
何回も同じ箇所を故障もしてきたので一人でも怪我で野球ができない人を減らしたいという願いもあります。そして、一人でもキャッチャーに興味を持って
「キャッチャーがしたい人」「キャッチャーが好きな人」
が増えてほしいと思います。
今後の展望
今後、野球の発信を通して人と繋がり、いろんな形で野球に携わりたいと思います。
技術の話や選手情報はもちろん、 野球のイベントを開催したり、活動拠点が神奈川なので関東圏内に止まらず沢山人に出会い成長していきます。
現在取り組むんでいきたい内容は以下の通り
- アメリカへメジャーリーガーになる学生を取材
- プロ野球選手から少年球児まで取材
- 本を出版する
- 青年海外協力隊として発展途上国に野球支援活動
今後日本にもっと野球をする子供が増えたりプロ野球や甲子園で活躍する人が増える取り組みも行っていきます。
私自身、現役の頃小学生から中学時代に何度も同じ箇所を痛めて怪我と付き合いながらプレーをしていていました。今では肘が曲がってしまっています。
怪我でなく選手を一人でも減らしていけるようなトレーナー、体のコンディションにも関わることをしていきます。
また、食事、体づくりに関しても何かアプローチをしていきます。
母子家庭というのもあり、野球をさせる親の負担は重々承知です。
そのため、親御さんの負担を減らす、かつ、選手の体づくりの土台になる「食」で栄養のあるご飯を食べてもらえるようなことも将来見据えています。
野球の母国アメリカに野球留学をして、トレーニングやデータ、練習方法を現地で観て吸収して日本に還元してさらに世界で強い野球大国日本にしていくと同時にまだ野球が発展途上な国、東南アジアなどの国々へ野球ができる環境を整え世界中に野球を広めていく活動を人生を懸けて取り組んでいきます。
今後ともよろしくお願いします。
熱く語ってしまいました。最後まで読んで頂きありがとうございました!
同じように野球に熱い想いのある方がいればぜひ一緒に取り組んでいきたいです⚾️
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