プロ野球の歴史は遡ること戦争があっていた時代から現代まで続いている歴史のあるスポーツです。日本では最もメジャーなスポーツで野球少年が一度は憧れる舞台です。そんなプロ野球選手の平均年齢寿命は28歳と言われています。引退してから定年を迎えるまでの人生の方が長いのは一目瞭然ですよね。
煌びやかな舞台に目を奪われているせいか”引退”した選手たちが多種多様な職業にそのあと従事していることは知られていません。今回は著者:松永多佳倫さんの「前職:プロ野球選手第二の人生で勝ち組になる」からプロ野球から退いた選手をもとにアスリートのセカンドキャリアについて話します。今回の内容では以下のような情報を得ることができます。
・煌びやかなプロ野球の世界の実態
・アスリートのセカンドキャリアの実態
・セカンドキャリアで成功するために必要なこと
こんな方におすすめです!
・スポーツをされているアスリートの方
・これからプロスポーツ選手を目指している学生
・転職を考えているビジネスマン
キャリアについて考えている人には必見のコンテンツが詰まっています。
【野球選手のセカンドキャリア】
みなさんはプロ野球選手のアスリートのセカンドキャリアと聞いてどんな職業を思い浮かべますか?私がパッと思いつくのは、以前楽天の監督を務めていた大久保監督が居酒屋を出すことを宣言して引退してことが印象的です。かつては焼肉屋、スナック、居酒屋といった”飲食業”が定番でした。今回ご紹介する奥村さんも引退後は飲食業の道へ進んでいます。
しかし、近年は野球選手の中でも将来について不安を抱えている選手が半分以上いるせいか以下のような人生勝ち組と呼ばれるような職業についているケースがあります。
- 国会議員
- 大学教授
- 会社社長
- 公認会計士
- 司法書士
一昔前は「野球バカ」という言葉が象徴されるように野球選手は野球だけしかできなく勉強は全くできない典型的な選手が大半でした。近年ではそういったイメージが変わりつつあります。しかし、いまだ就いていない職業は医者と弁護士の二つだけです。
プロ野球選手の第二キャリアについて詳しく知りたい方は【元プロ野球選手が戦力外通告を受けて第二キャリアで年商100億円社長にまで成長】や【第二キャリアでプロ野球初の公認会計士に転身】もチェックしてみて下さい。
第二キャリアで必ずしも就職しないと決まっているわけではありません。大学で学び直すことも選択肢にあります。
第二キャリアで大学進学に興味を持っている方は【第二キャリアで大学進学】と【プロ野球初の医者を志し医学部へ進学】をチェックしてみてください。
プロフィール
今回ご紹介する元プロ野球選手のプロフィールと経歴は次のとおりです。
- 大嶋匠(おおしまたくみ)
- 1990年2月14日生まれ
- 群馬県出身
- 新島学園-早稲田大学
- 2011年ドラフト7位で日本ハムに入団
- 2018年に戦力外通告を受ける
- 現在は市役所職員として勤務
学生時代はソフトボール一筋でプレーしていたが大学の監督の一声で野球へのレールを敷かれることに。野球経験0で入団テストを受け、早稲田大学ソフトボール部から初のプロ野球選手になります。2軍では打率3割を残すなど活躍もあり野球5年目にしてプロ野球の1軍の試合で初ヒットを放ちます。活躍は長くは続かず怪我もあり戦力外通告を受けます。
大学卒業して就きたかった公務員を目指し、非正規雇用で働きながら会いた時間で試験勉強に励み、倍率36倍を超える難関試験を合格し公務員に転身したプロ野球選手です。
野球経験0のプロ野球選手
「日本ハム7位 大嶋匠 早稲田大ソフトボール部」
このアナウンス、表示を聞いてみた誰もが驚きを隠せなかったことでしょう。なぜ、ソフトボールしかやったことのない学生が野球の道を志したのか?それは大学時代の顧問の先生が関係していました。
ご存知の通り、ソフトボールは野球に比べてはるかにマイナーなスポーツです。男子ソフトボールはなおさらのことです。どんなにソフトボール界で活躍しても日の目を浴びることがなかったソフト界の方が「なんとか見返したい!」の一心でソフトボール界の怪物に思いを託しました。
入団テストを受ける前にまずは硬式ボールに慣れるために社会人野球に参加しました。あり得ないケースで野球界に志しました。全国の白球を追う球児がなりたくてもなれないプロ野球選手になってしまいました。野球道具を持っていない、プロ野球選手が誕生しました。
硬式戦初打席で初ヒットがホームラン!
プロ入り後はの新人生活は、新人としての苦労よりも野球そのものをやる苦労が大きかったといいます。バッティングはソフトボールの速い球に体が慣れていたこともあり難なく対応ができたといいます。実際に球を見たときに速いと思わず、変化球に関してはいつまでたってもこないように感じていたといいます。
しかし、キャッチャーとしてまともにキャッチングができなかった。沖縄のキャンプで行われた紅白戦で初めての野球デビューを果たします。大嶋さんにとって初めての硬式ボールを使った試合です。8番DHで出場します。1打席目、2ボールとボール球が先行し、ストライクを取りにきた真ん中のストレートを迷いなく振り抜きました。
ライナー性の打球はセンターの頭上を越えていき、打球はバックスクリーン直撃しました。初スイングがホームランといった誰もが予想しなかった野球人生の幕開けになりました。
甘くはなかったプロの世界
初打席でホームランを放ち、ファンやメディアからの大嶋フィーバーは加熱していきます。しかし、本人はすでに壁に当たっていました。攻守ともに致命的な課題を抱えていました。
- 打撃 タイミングの取り方がわからない
- 守備 セカンドスローイングができない
野球とソフトボールの明らかな違いは球場の規格です。ソフトボールに比べて野球のグランドははるかに大きいです。
ソフトボールはマウンドとホームの距離は短いためバッターは”間”を取る時間が圧倒的に短いです。ソフトボールの癖があるため、野球では足を上げてタイミングを取るとドンとすぐに着地してタメを作れていない状態でボールを待っていました。
ソフトボールのホームからセカンドまでの距離は短く、肩が強い選手は上半身の力だけで届きます。しかし、上半身に頼った投げかたは通用せずホームからセカンドまでノーバウンドで届かないこともあったそうです。
チームの愛されキャラ
そんな野球の難しさに直面していた大嶋さんをチームメイトは見過ごしませんでした。同級生の中田翔(現・中日ドラゴンズ)は大嶋さんを気にかけてよく話しかけてもらっていたそうです。さらには中田選手のバットを譲ってもらったりもしたそうです。
チーム合流初日もコーチにいじってもらって周りが笑ってくれて緊張がほぐれました。そんな愛されキャラの大嶋さんに攻守の課題を解決するアドバイスをコーチは丁寧に教えてくれました。
野球1年目の初心者を見捨てることなく、可愛がってくれた日本ハムという球団やチームメイトから大嶋さんは支えてもらっていました。人が周りに集まりやすいタイプだったかもしれませんが、何より、野球1年目で謙虚に素直に野球と向き合っていたから周りは応援してくれたのだと思います。
7日間のキャリアハイ
大嶋さんの人柄の良さもあり、コーチ陣のアドバイスを受け徐々に形となり結果として表れてきました。5年目の2軍戦の成績は以下の通り。
- 打率 .308
- 本塁打 9本
- 打点 49
代打とキャッチャーができることを自分の売りにして1軍のまずはベンチ入りすることを考えていました。大卒5年目、大嶋さんにとっては野球経験5年目で遂に開幕1軍入りを果たします。
しかし、出場機会は代打の1打席のみで登録抹消されることになります。開幕から1軍と2軍を行き来する日々を繰り返していました。そして5月31日のヤクルト戦で代打で出場し右中間を破るツーベースヒットを放ちます。これが5年目にして待望の初ヒットでした。
続く6月3日の巨人戦ではエース菅野智之との同級生対決が繰り広げられました。野球界のエリートとソフト界のエリートの対決を制したのは大嶋さんでした。ストレートをライト前に弾き返しました。
そのままプロ初のマスクをかぶり、斎藤佑樹(現・株式会社斎藤佑樹代表取締役)とバッテリーを組みました。
このたった7日間が大嶋さんの野球キャリアでもっともハイキャリアだったと語っています。
告げられた戦力外通告
しかし、幸せな時間もすぐに終わり、大嶋さんにその時が近づいていました。プロ2年目のフェニックスリーグに向かうバスで球場に到着したところで同級生が荷物をまとめて2軍グランドに帰りました。大嶋さんは目の前で戦力外通告された選手を見ていました。
2018年の夏、2軍戦で膝を負傷してしまいます。膝を怪我した試合が大嶋さんの最後の試合となってしまいました。
球団にはブルペンキャッチャーの道も勧められたが断り、自ら編成をやらせてくれと頼んだが、枠がありませんでした。2018年10月を持って、そのまま野球界から退きました。
ニートから正規雇用されるまで
2018年の10月に戦力外通告を受けて職を失いました。しかし、やると決めたことはすぐに行動に移します。10月末には公務員試験を受けるとすでに決めていました。10月末の公務員試験が終わり、それから3月までのやく半年間ニート生活を送ります。
ニート生活で倍率30倍を超える採用試験を合格するために送った生活は次のとおり。
- 朝8時〜13時 試験勉強
- 13時以降 自由時間
このタイムスケジュールを作ったのは、単に市役所の勤務時間に合わせたものでした。昼からはゴルフの打ちっ放しに行ったり、筋トレをしにジムに通ったり充実したニート生活を送っていました。上記のような午前と午後でメリハリのある生活を半年ものあいだ続けました。
ニート生活を半年間過ごして2019年の4月より臨時職員として勤務します。それからは空いた時間に問題集を解いては解き、記憶の定着に励みました。
学生時代に掲げた夢が8年越しに叶う
大嶋さんは大学の顧問の先生からプロ野球のレールを敷かれるまでは大学を卒業したら市役所で働くと考えていました。なぜなら仕事を続けながら全国優勝を狙えるチームでソフトボールができるからです。
大嶋さんの地元群馬県・高崎市役所は全国有数の男子ソフトボールの強豪チームです。ソフト界の思いを託されて入った野球を去り背負っていた荷物をおろした今、自分で決めた道を進もうと腹を括っていました。
2019年の8月に受けた筆記試験と面接を通過し、12月の最終面接を受け、見事一発で合格を果たしました。2020年4月から晴れて市役所の正規雇用として勤めることになりました。現在は納税課で市民の滞納の整理や未納の税機を徴収する堅い仕事を全うしています。
公務員に転身した選手の言葉5選
最後にソフトボール一筋から異種目の野球をはじめ、30歳にして公務員になった大嶋さんのことばを5つご紹介します。アスリートの方や異職種に転職される方に向けたメッセージになっています。
遠回りだと思っても、最高の道がある
大嶋さんはソフト界の怪物でした。早稲田大学に進学したのも卒業したら地元の市役所で勤務してソフトボールを続けたいという意思があったからです。しかし、大人たちのエゴでやったこともない野球界にレールを敷かれます。
プロ野球7年間の生活を送り、8年越しにようやく自ら選んだ道を進みました。8年間も遠回りしたプロセスこそが大嶋さんにとって大きな財産となります。全くミスなしで目的にたどり着く人がいたとしても人としての深みは出てきません。
結局、無駄なことって無駄ではなく目的に到着したときに「ああ、このときのためにあのときがあったんだな」と思える日が必ずきます。
遠回りこそが最短の道です。信じて進み続ければ必ず目的地に辿り着きます。
完璧を求めず、ほどほどでも良しと思う
大嶋さんは野球において完璧主義者でした。コーチにそんなに完璧を求めていると自分を苦しめることになると注意を受けたくらいです。完璧主義者の人は他人の評価よりも自分にしかわからない手応えをとても大事にします。
たとえミスしても、自分が納得していたらいい。うまく行っても納得のいく形ではない、手応えがない場合は気持ちが悪い、そう感じることがあります。
学校のテストで80点の成績をとっても、100点をとっても評価はほとんど変わることがないように完璧ではない自分を認めてください。ないものではなく、あるものに目を向けていきましょう。ほどほどの自分を「よく頑張ったな」と褒めてあげてください。完璧主義は自分を苦しめ、自分の周りにいる人たちまで苦しくなります。
何事も力むな。難しく考える必要はない
自分の頭の中で考えなくていいことまで考えて難しくしてしまってできることさえ疎かになったことはありませんか?気持ちだけ先走って、行動を共にしないなんてことはありますよね。
肩の力を抜いて、単純に考えてみよう。やる前から考えて尻込みしてしまうのは自信がないだけ。ものごとを複雑に考えることはありません。たとえ難しいことだったとしても簡単ではないしても解決策は単純なものだったりします。
初めて見たときに抱いた感性は、大切に持て
人は会った時の第一印象が3年ものあいだ第一印象で抱いた印象になってしまうなんて話がありますよね。他にもファーストチェスというように即決した判断と1時間考え抜いた判断が同じだとか。
それくらい初めての体験、印象、感覚は大事です。人に説明できなくてもいい。むしろ、人に言葉で説明できない自分だけが感じたことを大事にするべきです。他人になんと言われようと自分が感じたものこそが真実です。感性を研ぎ澄まして初めてのことに対して感じた気持ち、感覚を大事にしましょう。
たまには背中や肩に背負った荷物を下ろそう。誰も怒らないから。
大嶋さんは大学時代に自らの意思で公務員になろうと決めたが、大人たちがプロ野球という煌びやかなレールに切り替えます。野球1年目がプロ野球という野球トップの精鋭たちが集う弱肉強食の世界でプレーしていました。本人の無意識の中でソフトボールの代表としてプレーしているという想いが現役中にあったといいます。
ソフト界をひとりで背負うことで自らのプレッシャーをかけ、7年の現役生活を耐え苦しんでいました。しかし、大きな期待を背負って苦しんでいる姿を見て、仲間や家族はいい思いはしません。むしろ、楽にやって欲しいと思います。自分のキャパオーバーな荷物は無理だと思ったらおろして身軽になりましょう。
荷物を下ろし、身軽になったときに本当は何をしたいのか、その道へ足取り軽く進みましょう。背負っていたものが大きかった分、ずっと楽になります。
まとめ
今回はプロ野球選手から公務員に転身した選手のセカンドキャリアのストーリーでした。
大嶋さんがセカンドキャリアで成功した要因は「他人軸ではなく、自分のやりたいことを大事に決めたから」「昔の自分を自己分析をして何がしたかったのかを明確にしていたから」につきます。
もし、大嶋さんが戦力外通告を受けて勧められるがままにブルペンキャッチャーになっていたらセカンドキャリアはどんなに報酬や待遇が良くても失敗でしょう。なぜなら、自分の人生ではなく、他人の人生を生きることになっていたからです。
これまでセカンドキャリアで成功する選手を紹介させていただきましたが、誰も同じようなキャリア、進路は歩んでいません。
つまり、決断したことに正解なんてものはなく、下した決断を正解に導くのは自分次第ということです。進路やキャリアに悩んでいる方がもし読んでいたら、自己分析、過去の自分を振り返ってみると納得のいく決断ができるでしょう。
コメント