横浜一面を青くし、燃え上がる炎のように声援が鳴り響く横浜スタジアムでプレーするハマの選手たち。弱小球団のレッテルを貼られながらも闘志を燃やしてきた横浜DeNAベイスターズというプロ野球チームをご存知でしょうか?
長い歴史から伝説の一戦と呼ばれるファンなら誰でも知っている試合をご存知でしょうか?現在のチームの状況、展望はご存じでしょうか。
知らないファンもご安心ください!今回はベイスターズの球団の何から何までお話ししていきます。このコンテンツでは横浜DeNAベイスターズの球団の紹介をすると同時に以下のような情報が得ることができます。
・横浜DeNAベイスターズとはどんな球団なのか
・球団の歴史
・球団の優勝、成功と栄光
・現在のチームの展望について
あなたが知らないベイスターズの何から何までご紹介していきます!
DeNAベイスターズってどんな球団?
まずはベイスターズがどんな球団なのか、ファンではない人にも知ってもらえるように紹介します。
所属リーグ | セ・リーグ |
本拠地 | 横浜スタジアム (神奈川県) |
2軍グランド | 横須賀スタジアム (神奈川県) |
キャンプ地 | 沖縄県宜野湾市 沖縄県嘉手納町 |
創設した年 | 1949年11月22日 |
運営している母体 | 株式会社DeNA |
創設70年の長い歴史を持つ伝統のある球団です。そのため歴代のチームや歴史は今でもファンの中で語り継がれています。
球団を経営しているのはIT系の会社で注目を集めているDeNAです。主にモバイル関連のインターネットサービスでゲーム事業に取り組んでいます。
年表からみる球団の歴史
70年の長い歴史と伝統のあるDeNAベイスターズのこれまでの歩みを振り返ります。本拠地の移動を3回行い、球団名は6回も変わっています。
大洋ホエールズ 1950年〜1953年
現在のベイスターズが産ぶ声をあげたのは、1949年11月22日のこと。
「株式会社まるは球団」を山口県下関市に設立しました。
1950年のシーズン開幕後に「大洋ホエールズ」に球団名を変えました。
創立してまもない頃は他球団の選手を譲り受けたり、スカウトして補強した選手でチームを編成してきました。
関東、関西の球場への遠征がシーズンの大半を占めており、長い遠征を強いられ、体力を激しく消耗した中で試合に臨んでいました。
チームは絶対的エースの存在が欠けており、5位で終わります。
それか投手力の課題を克服することができず、続く51年、52年シーズンも6位、4位と伸び悩んでいました。
大洋松竹ロビンス 1954年
1953年シーズンに「勝率3割に満たなかった球団に処罰を下す」と言う衝撃のルールが出ました。
背景は昨シーズン、広島カープが勝率3割に満たなかったから、広島カープを潰すためのルールでした。
しかし、まさかのカープではなくホエールズが勝率3割未満に終わってしまい、処罰をくらうことになります。
処罰は松竹ロビンスと対等合併でした。
球団事務所を大阪スタジアムに移り、山口県から大阪府へ異動しました。
洋松ロビンス 1954年
球団名を大洋の洋と松竹の松をとり、洋松ロビンスに変えます。
合併して迎えたシーズンは優勝した中日ドラゴンズに55ゲーム差をつけられて5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差をつけられ6位に終わります。
合併してにも関わらず残念な結果に終わりました。
大洋ホエールズ 1955年〜1977年
1年で松竹は球団経営から撤退しました。
撤退したことで大洋ホエールズに戻します。
本拠地は神奈川県横浜市の横浜公園平和野球場に移ります。
しかし、スタンドがせまいことから、川崎市の川崎球場に移転します。
迎えたシーズンは最下位に終わります。
そして、1959年まで6年連続最下位でセ・リーグ弱小球団のレッテルを貼られます。
1960年に西武ライオンズで指揮を執っていた水原脩を監督に招き、球団の再建を図ります。
この効果は絶大で、これまで6年連続最下位のチームが優勝常連の巨人と優勝争いに勝ち初のリーグ優勝を達成します。
リーグ優勝した勢いのまま日本シリーズで大毎オリンズ相手に全試合1点差のゲームを勝ち弱小球団が日本一を達成し、弱くても勝てることを証明しました。
リーグ優勝、日本一はファンも選手も目からウロコのできごとでした。
1962年は優勝争いをするも、一歩及ばず優勝を逃し、1963年は最下位に転落してしまいます。1964年は再び、優勝争いに加わるも優勝することはできませんでした。
1965年から1968年まで勝率は5割を切ってしまいます。日本一9連覇を成し遂げた巨人相手に打線は奮起するも、創立から課題の貧弱な投手陣が打ち込まれて負けが続いていました。
その後も投手力という課題が解決されず、チームは成績が伸び悩みました。
1975年から5年連続の最下位を記録すると、そこからさらに7年連続で最下位に転落しました。
横浜大洋ホエールズ 1977年〜1992年
1977年から本拠地を横浜スタジアムに移転します。
移転と同時に都市名を入れた横浜大洋ホエールズに変えます。
当時、ファンが少ないチームでしたが、営業体制の改革を伴った球団の変化がファン増員をもたらすことになります。
移転して迎えた初年度は4位に終わるも、観客動員数は球団史上初の100万人を突破し、143万人超えでした。
2年目は、8年ぶりのAクラス2位ににあがります。
この年にカープが本拠地で優勝したことで「セ・リーグで本拠地で優勝していない最後の球団」と呼ばれるようになりました。
1981年シーズンは首位巨人に31.5ゲーム差を付けられ最下位に終わります。オフには長嶋茂雄を監督としてチームに招き入れようとするも失敗に終わる。
1985年は「スーパートリオ」こと高木豊、加藤博一、屋舗要の俊足打者でチームは注目を集めるも、課題の投手力が改善されずBクラスに終わる。
1986年は2年連続の4位に終わる。
スーパーカートリオの1人、屋舗要がこのシーズンから3年連続で盗塁王に輝いた。
オフに低迷したチームを打破する策はないかと考え、同じ弱小球団と評されながも日本一に導いた広島カープの古葉さんを招き入れます。
チームの首脳陣は当時のカープの首脳陣に固めて挑んだ3年は5位、4位、最下位と手腕を発揮することはできなかった。
大洋、巨人の2球団の2軍監督の経験があった須藤豊が監督に就任することになります。
須藤監督は2軍で実績のある若手選手を積極的に起用して手腕を発揮し、9年ぶりにAクラスへ押し上げました。
1991年は主力投手のスキャンダルや助っ人外国人の解雇などチーム事情がいちじるしく悪く5位に終わます。
1992年はヘッドコーチの江尻亮が監督の代役を務めることになります。投手だった石井琢朗が野手に転向し、このシーズンからレギュラーを掴み取りました。
シーズン5位で終わるが、盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーが確立しチームに回復の兆しが見えてきた。
横浜ベイスターズ 1993年〜2012年
1993年4月に地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに変えます。
球団名の変更に伴い、ユニホーム、球団旗、、ペットマーク、マスコットキャラクターを一新します。
監督にはOBの近藤昭仁が就任し、首脳陣も一新して迎えたシーズンは3年連続の5位に終わります。
オフにベテラン6選手を一気に解雇しました。しかし個人成績で以下の選手がタイトルを獲得しました。
- ロバート・ローズ 打点王
- 石井琢朗 盗塁王
- 野村弘樹 最多勝
1994年は5年ぶりの最下位に転落します。続く95年は怪我から復帰した佐々木主浩が32セーブを挙げ、怪我から完全復活します。
1996年から大矢明彦が監督になります。監督が変わったことで大幅なポジション変更が行われ、「台風の目」と評され、注目が集まったシーズンも結局は5位止まりでした。
1997年は7年ぶりのAクラス、2位に浮上してシーズンを終えます。
1998年から大矢に変わり、権藤博が監督に就任します。
大魔神佐々木を不動の守護神を中心とした投手陣と「マシンガン打線」がかみ合い38年ぶりのリーグ優勝を果たします。
日本シリーズでは西武ライオンズとの対戦で4勝2敗で悲願の日本一を達成しました。
1999年は3位に終わるもロバート・ローズが首位打者、打点王を獲得し、チーム打率は.294と当時の日本プロ野球記録を更新するなど個人成績は昨年同様の活躍がありました。
オフにはチームを支えてきた佐々木主浩がマリナーズへ移籍します。
2000年、01年はと3年連続3位に終わる。2000年に金城龍彦が新人王に輝く。
2002年は開幕から球団ワーストタイ目前の13連敗を喫するなどシーズン通して大敗して最下位に終わる。
オフにはメジャーリーガーをはじめとする大型補強を試みるも失敗に終わり5位に終わります。
2004年に不動の守護神、佐々木主浩がチームに復帰します。しかし、最下位に終わります。
2005年はこれまで不調だった投手陣が復活して4年ぶりのAクラス入りを果たし、オフに佐々木主浩が引退右しました。
2006年シーズンオフに巨人の小田嶋正邦と仁志敏久、工藤公康、ソフトバンクの寺原隼人、日本ハムの横山道哉がチームに加入しました。
2007年は10年ぶりに大矢明彦が監督に復帰します。4位に終わるも主力選手の活躍が目立ったシーズンでした。
- 村田修一 本塁打王、100打点(2年連続)
- 三浦大輔 35イニング連続無失点
2008年は次々とワースト記録を打ち立て最下位に沈みます。個人成績は以下の通り。
- 内川聖一 首位打者、最多安打
- 村田修一 本塁打王
- 2010年、11年で6年連続Bクラス、4年連続で最下位に終わる。3年連続シーズンで90敗を喫するのはプロ野球史上初のことでした。
横浜DeNAベイスターズ 2012年〜2023年
保有していた株の大半をDeNAに譲渡したことで球団名を横浜DeNAベイスターズに変更します。
2012年から中畑清がチームの指揮を執る。
セ・リーグ全球団に負け越して7年連続Bクラス、5年連続最下位となった。
2013年にはようやく最下位を脱出して12年ぶりに3球団に勝ち越した。
2014年はシーズン終盤までAクラス入りを可能性を残しており、徐々にチームの復活の兆しが見えてきた。
2年連続5位に終わる。ドラフトでは1位で山崎康晃を獲得する。
2015年にDeNA創業者、南場智子が球団オーナーに就任し、日本プロ野球初の女性球団オーナーになった。
前半戦は首位に立つも、後半戦で調子を落とし3年ぶりの最下位に終わる。ドラフト1位で今永昇太を獲得する。
2016年から球団初の外国人監督、アレックス・ラミレスがチームの指揮を執ります。
11年ぶりのAクラス3位で終わり、球団名変更して初のクライマックスシリーズ進出を決めました。
- 三浦大輔 24年連続安打
(ギネス記録) - 筒香嘉智 月間本塁打16本
(最多記録)
月間6度の複数本塁打
(日本記録)
3試合連続複数本塁打
(日本記録)
本塁打王、打点王
2017年は2年連続の3位に終わるも、セ・リーグ初のクライマックスシリーズで下剋上を果たし、日本シリーズ進出を決めます。惜しくもソフトバンクホークスに4勝2敗で敗れ日本一になることはできませんでした。
日本プロ野球史上初となる、3者連続ホームランサヨナラゲームを果たします。宮崎敏郎が首位打者、ロペスが最多安打、打点王に輝くなど打撃陣は4番の筒香を軸に力を発揮した。
投手陣も今永、濱口、ウィーランドが2桁勝利をあげた。
2018年、平成最後のシーズンとなったが結果は4位に終わり「平成時代で一度もリーグ優勝できなかった唯一の球団」となりました。
- 山﨑康晃 最多セーブ
- ソト 本塁打王
2019年は開幕スタートでは負け越すものの、尻上がりに調子を上げ、2位でシーズンを終える。オフに筒香がメジャーへ移籍する。
2020年は4位に終わるも今シーズンからキャプテンに就任した佐野恵太が首位打者になる。
2021年は1年目の牧、桑原、佐野、宮崎の4選手が3割を残し、チーム本塁打数、得点数はリーグ2位と打撃は調子がよかったものの、7連敗が2度あるなどして6年ぶりに最下位に転落します。
2022年は前半戦は借金を作ってしまうなど不調に陥るも、徐々に調子を上げていき2位で終わります。
2023年はサイ・ヤング賞を獲得したことのある、バウアーがチームに加わるも、クライマックスシリーズで2位の広島に2連敗でシーズンが終わりました。
ここまで駆け足でベイスターズの歴史を振り返ってきましたが、他の球団よりも順位が上がらず、晩年Bクラスのチームという印象を受けているファンも多いかと思います。
しかし、どんな逆境に立たされてもカッコ悪くても横浜に灯る青い炎は一度たりとも消えたことはありません。
近い将来、必ずベイスターズが下剋上を果たし、令和で最も青く燃えている球団になります。
ファンなら知っていて欲しい!出来ごと
ここからはわたしからベイスターズファンならこのこの歴史だけは知っておいて欲しい!という出来事を厳選しご紹介します。
もはやこれを知らずファンは語れないと思った方がいいです!
チーム想いの大魔神佐々木
プロ野球界で「大魔神」と聞いたら誰を思い浮かべるでしょうか?
皆さんご存知の佐々木主浩です!佐々木主浩のプロフィールは以下の通り。
- 佐々木主浩(ささきかずひろ)
- 1968年2月22日生まれ
- 宮城県仙台市出身
- 東北高校-東北福祉大学卒
生い立ち
- 地元宮城県の少年野球を始める
- 高校進学の際に周囲の反対を押し切り東北高校へ
- 高校2年の夏からエースとして3度甲子園に出場
- 最高成績は3年の春夏のベスト8
- 大学では全日本大学選手権で2度の準優勝に貢献
- 東北福祉大学初のドラフト1位指名でプロ入り入団を果たす
プロ入りから大魔神になるまで
ルーキー1年目から大魔神の予感をさせていました。1年目の試合でカープ相手に一度もバットに当てさせずに3者連続三振を奪い、衝撃のデビューでプロ野球生活をスタートさせます。
リリーフ投手の最も名誉あるタイトル:最優秀救援投手を獲得します。
4年目には佐々木を「悪魔の守護神」を略した魔神と呼ぶようになります。
史上最速の500奪三振を記録し、ベイスターズで初めて年俸1億円の投手になります。
そんな佐々木主浩のピッチングを一言で表すと「ストレートとバッターの目の前で消えるフォークで三振に抑える投手」です。
球種は150キロを超えるストレートと消えるように落ちるフォーク。
たった2球種で試合を締める。そんな大魔神が立ててきた偉大な記録は以下の通り
- 17試合連続セーブ
- 日本セーブ記録更新
- シーズン防御率0.64
- 日本人最多のメジャー通算129セーブ
- 歴代3位のプロ野球で252セーブ
- 日米通算381セーブ
そんな大魔神の言わずと知れたチーム想いのエピソードがあります。
いつもマウンドを上がるとき、「先発の白星を消したくない」「チームに負けをつけたくない」そんな想いを持っていつもマウンドに上がっていた。佐々木の父の命日の日に327日ぶりの失点と675日ぶりの敗戦投手となった。繊細な心の持ち主だった大魔神はメンタルの疲れからヘルペスを発症していたのだ。
自分のためではなく、ピンチを抑えて自分にマウンドを託すまでにピッチャー、野手全員が作った試合を何がなんでも抑える。そんな熱い思いをもった、ベイスターズの守護神に相応しいピッチャーでした。
横浜が愛したハマの番長
現役25年、横浜一筋で現役生活を終えたハマの番長を知らないファンはいないですよね?
その名も三浦大輔です。三浦大輔のプロフィールは以下の通り。
- 三浦大輔(みうらだいすけ)
- 1973年12月25日生まれ
- 奈良県橿原市出身
- 市立高田商業高校からドラフト6位で入団
見た目に寄らぬ球界随一の技巧派
髪型はリーゼント、あだ名は番長、このワードを聞いておそらく豪快な投げっぷりをイメージするでしょう。
しかし、想像とは全く別で6球種を投げ分け、精密機械と言われるほどコントールが武器の投手でした。
その証拠に現役通算16回、無死球完投試合を記録しています。
プロ25年でのエラーはたったの9個だけ。
マウンドで一切感情的にならず、常に冷静な投手です。
そんな番長の真骨頂は間を最大限活用した投球術にあります。
本拠地でホークスと対戦した際に、ホークスの4番・柳田悠岐に真ん中に抜けた球をバックスクリーンを破壊するホームランを打たれます。
しかし、次の打席は逃げずにインコースを攻めてたます。
そしてフルカウントでこれまでの間合いを変えます。
これまでよりも長くボールを持ち、バッターに考える時間を与えたのです。
そして裏をかいてアウトコースのストレートに手が出ず三振に仕留める。
番長にはこのような誰も気にかけないような繊細なところまで気をつけ自身の投球術を磨いていたから25年もマウンドに立つことができた。
リーゼントのワケ
ファンの方もなぜリーゼントにしているのか気になりますよね?
きっかけは期待もされない高卒の下位指名の選手が首脳陣の目にとまる何か飛び抜けた個性が必要でした。
そんな思いから敬愛する矢沢永吉の影響もあり髪型をリーゼントにします。
別の意味で目をつけられることになったが髪型に文句を言わせないために誰よりも練習に励んだという。
プロデビュー戦で憧れた引退セレモニー
三浦大輔がプロ1軍のデビュー戦はシーズン最終戦の当時エースだった遠藤一彦の引退試合だった。
当時三浦は19歳で目の前でエースの盛大な引退セレモニーを見て「自分もあんな引退セレモニーをしたい」と心に誓います。
その思いは24年後に現実化します。
番長の引退試合は横浜スタジアムでヤクルトの対戦でした。
ベイスターズファンのみならず相手チームファンからも「おつかれさま!」と温かい声援をかけてもらいながら現役生活にピリオドを打った。
そして現在はチームの監督として再びユニホームを着て日本一奪還を目指して指揮を執っている。
ハマの空から世界へ!筒香嘉智
誰に何と言われようが自分のスタイル、信じたものを貫き通す。
そんなバッターが横浜に空高くアーチをかけてホームランを放っていました。
その名も筒香嘉智です。プロフィールは以下の通り。
- 筒香嘉智(つつごうよしとも)
- 1991年11月26日生まれ
- 和歌山県橋本市出身
- 横浜高校-ベイスターズ-レイズ-ドジャース-パイレーツ-アメリカ独立リーグ
生い立ち
- 人口10万人にも満たない田舎で生まれ
- 中学時代は通算30本塁打を放ち全国の強豪校からスカウトされる
- 小学1年生のときからの憧れだった横浜高校に入学
- 1年から4番に座り3年間で高校通算69本塁打を記録
野球を好きになる天才
筒香選手をどんな選手なのかと聞かれたら「野球を好きになる天才」と答えます。
筒香選手ほど、野球を愛して好きになるための努力をしている選手はいないと断言できます。
遊び盛りな中学生のころは野球の練習のない放課後に友だちと遊んだことが一度もなく、父と兄が作ったバッティング練習場でひたすらバットを振り込むのが筒香選手の学生時代の青春です。
ベイスターズ在籍時にはキャリアハイを残したシーズンに更なる飛躍のために自らドミニカ共和国で行われるウインターリーグに武者修行に行きます。
日本から海を渡り、メジャーの壁にぶつかりメジャー契約を解約されてもなお、アメリカに残ってプレーを続けています。その姿勢から、結果が出なくても諦めずひたすら自分のバッティングを追い求め研究し変化し続けています。現在もメジャーから降格されも世界のトッププレーヤーとプレーするために1人諦めずアメリカに残りプレーしています。
ここまでできるのは、紛れもなく心底野球が大好きで人生の中心に野球がある証です。
ハマの優勝と栄光
ここからはベイスターズの成功と栄光について振り返ります。
70年以上続く球団の歴史は長く、しかし順風満帆の歴史を歩んできたわけではありません。
初めは下関から始まった歴史も大阪、神奈川と航海を歩んできました。負けて当たり前、そんな負け犬根性を払拭して掴んだ日本一。
球団初優勝までの長い道のり。そこから長らく低迷したチームが社会現象を巻き起こす輝かしい歴史を残しました。
半端ない!「三原マジック」
ベイスターズが初めて日本一に輝いたのは1960年のことです。それまでチームは6年連続最下位と屈辱を味わっていました。
そんな弱小チームを日本一に導いたのはそれまで西鉄ライオンズで監督を務め3度の日本一を経験した三原脩さんでした。
就任後、まず手をつけたのは「意識改革」です。
チーム全体に蔓延する”負け犬根性”を払拭しようとした。
それまでのベイスターズはキャンプの練習ではありきたりな練習の繰り返しでベテランは寒いからと練習をサボるチームだった。
三原監督就任後は、各個人に課した練習やチーム連携プレーなど細かい練習を課しました。
練習が終われば、毎日選手を集めて”三原メモ”と呼ばれる時間を設けます。
その時間を使って、西鉄ライオンズ時代に培ったノウハウやこれまでの敗戦を紐解きダメなプレー、有効なプレーを解説し、選手らはより深く野球を理解することができ、だんだん選手の意欲が湧いてきます。
「監督を信じていれば大丈夫」と選手らと信頼を築くことができてシーズンに挑んだ。
迎えたシーズンの戦績は以下の通り。
- 70勝56敗4引き分け
- 70勝のうち1点差のゲーム 34勝17敗
- 延長戦の戦績 7勝4敗3引き分け
- サヨナラゲーム 10勝5敗
- 日本シリーズ 4勝2敗 4勝のうち全て1点差ゲーム
土壇場で無類の勝負強さを見せ、接戦をモノにしてから優勝を掴み取ることができたのだ。三原マジックとは指揮官1人の意識改革がもたらした晩年最下位チームを優勝に導いた大革命です。
38年ぶり!奇跡の日本一
三原マジックから38年後、マジックならぬ社会現象となるフィーバーを巻き起こした球団史に輝かしい成績をご存知でしょうか?
当時、優勝したチームの1試合平均得点は脅威の4.72。周りからはマシンガン打線と恐れられる打線でした。監督は権藤監督で権藤監督も三原さん同様、選手からの信頼が厚い監督でした。監督のモットーは以下の通り。
- 選手の自主性を尊重
- 選手のポテンシャルを信じる
- サインを出さない
- 先輩・後輩の概念ない
- 選手が監督と呼んだら罰金
これまで負けに負け続けてきた闘争心に燃える選手らと選手の自主性を尊重し、のびのびプレーをさせる監督の信頼関係を築いた監督だった。
優勝メンバーのインタビューではどんな試合でも5点差くらいだったらひっくり返せる。全然まだ行けるという雰囲気がベンチにいつも漂っていました。ヒットが繋がると球場がザワザワし、横浜に独特な雰囲気が漂いはじめます。
スタンドからの声援、歓声がどんどん大きくなりファンの期待をグランドで戦う選手は肌で感じていたそうだ。実力だけではなく、球場の雰囲気、ファンの声援に後押しされいたのは間違いない。
球団カルチャーとファン愛
球団は野球だけではなく、子どもたちの憧れでもある選手たちとの交流や協力も大事にしています。シーズンオフになると地元の地域に選手が現場に足を運び交流することも増えてきています。ここではベイスターズ独自の文化やファンとの交流について話します。
未来ある球児へ野球指導
ベイスターズは野球を感じること、触れること、する機会を大事にしています。野球を通じて地域の子どもたちの未来、野球の未来の発展に貢献しています。
具体的な活動は以下の通り
出典・ベイスターズ公式HP 地域貢献活動
- 神奈川県こどもデー(野球観戦)
- 星に願いをプロジェクト(学校訪問授業)
- やきゅうみらいアクション(未就学児へボールあそび)
- 野球ファミリーイベント(家族で野球遊び)
- 野球教室(選手らによる技術指導)
- キッズベースボールフェスティバル(規模拡大した野球教室)
- 神奈川県野球交流戦(プロ・アマの垣根を超えた交流戦)
自費2億円で故郷に野球場
ベイスターズで10年間プレーをしたのちに現在はアメリカでプレーを続けている筒香選手が世間の度肝を抜く施策を出しました。
筒香選手、個人で総額2億円を投資し地元、和歌山県橋本市にアメリカンスタイルの野球場を設立しました。球場名は「YOSHITOMO TSUTSUGO SPORTS ACADEMY」
球場の建設が計画されたのは2年前のこと。初めは室内練習場から工事をスタートして2年かけて約3万平方メートルの土地に室内練習場を完備した野球場が完成した。
球場のモデルになったのが、ベイスターズでプレーしていたとき、シーズンオフにドミニカに武者修行に行った際に現地の球場を参考にしたといいます。こだわりは天然芝です。人工芝の方が見栄えは良く見えるかもしれません。人工芝はスライディングで火傷をしたり、足腰への負担が大きく選手の怪我が懸念されています。
球場を建設した目的は野球選手になることではない。野球を通して小学生から自分の頭で考えて行動する力を身につけて社会に出た時に競争に勝つ人財つくりをしていき、誇れる社会を作っていくための土台作りをしていくことです。
現在はベイスターズに所属していませんが、ベイスターズのユニホームを着てプレーしていた選手が素晴らしい行動を取ったことはファンは知っておく必要があります。
選手を後押しする青い応援団
横浜スタジアムはどの球場よりも青い炎のように青く、選手に力を与える応援をします。
38年ぶりに優勝を飾ったシーズンも選手が球場の声援を肌で感じて後押しされたと思うくらい迫力があります。
長く低迷期が続いた中でもファンは選手の支えになり、徐々に力をつけるとその支えは力となって選手の実力以上のプレーを発揮させるようになりました。
横浜スタジアムで行われる試合は平日からユニホームを着たファンが球場を埋め尽くし、青い熱気に包まれている。
そんな熱気も試合が終盤につれて増していき、球場のボルテージが最高潮で流れる「ヤスアキJUMP」はハマスタでしか味わうことのない熱気と応援です!
球界No.1可愛いマスコット
12球団の中で群を抜いて可愛いオーラを放っているDB.スターマン。横浜ベイスターズからDeNAベイスターズに球団名が変わった際にホッシーからリュニーアルされて誕生したマスコットです。
体型が丸く、ゆるキャラのような顔をしているDB.スターマン。走り方、動き、全てが可愛らしく目が離せないです。試合前には球場前でファンの皆さんをお出迎えする行儀のいいマスコットです。
現在のチームと今後の展望
最後にベイスターズのこれからについて話します。現在のチーム状況を把握した上で、今後の動向から誰が未来のベイスターズを背負っていくのかを解説していきます。
現在のチーム状況
2023年シーズンの成績は以下の通り。
順位 | 3位 |
勝率 | .529(3位) |
チーム打率 | .247(2位) |
防御率 | 3.16(3位) |
得点 | 520(4位) |
失点 | 496(3位) |
ここからわかることは
・打力があるチーム
・投手力が物足りない
・脇役となる選手の活躍が乏しい
ここ数年でAクラス入りが当たり前となってきています。今シーズンはチームはAクラス入りを果たし、個人成績でも投手、野手ともに複数の選手らがトップ3入りをしています。これだけ主力選手が活躍したにも優勝できなかったのは、主力選手を支える脇役となる選手たち。野手なら下位打線、投手なら中継ぎ、抑えの活躍がもっとあれば優勝も狙えるチームでした。
主力選手の紹介
投手
- 東克樹
- 山崎康晃
- 石田健太
今シーズン先発で2桁勝利を挙げたのは東とバウアーだけです。しかも、23年オフにバウアーは自由契約、エース今永はメジャー挑戦と先発3本柱のうち2本を欠くことになりました。来シーズンもAクラス入りを果たし優勝を果たすには、先発陣が試合中盤までロースコアで試合を作ることが鍵になります。また、シーズン中盤からメンバーから外れた守護神でもあり、キャプテンでもある山﨑康晃の復活に期待がかかります。
野手
- 牧秀悟
- 宮崎敏郎
- 佐野恵太
クリーンアップを打つ選手らが打点、打率ともにリーグトップの成績を残していることが強さの源です。個人個人のレベルはリーグトップと言っても過言ではありません。試合に勝つためには主力選手よりも下位打線を打つ選手や得点圏においた場面でクリーンアップに回るように繋ぐ”打線”が欠かせません。点ではなく線でチームが機能すれば優勝は間違いない。
ドラフトから考える育成計画
過去3年で1位指名した選手は以下の通り。
- 2020年 入江大生(投手)
- 2021年 小園健太(投手)
- 2022年 松尾汐恩(捕手)
過去3年で1位指名された選手は即戦力として活躍はできているとは言い難いです。しかし、今永、山﨑とドラフト1位指名の選手が日の丸を背負ってプレーするまでに成長しました。長い目で見ると必ず芽が出てきます。2023年のドラフトで指名された選手は以下の通り。
- 1位 度会隆輝(外野手) 社会人卒
- 2位 松本凌人(投手) 大卒
- 3位 武田隆玖(投手) 高卒
- 4位 石上泰輝(内野手) 大卒
- 5位 石田祐太郎(投手) 大卒
- 6位 井上絢登(内野手) 独立リーグ卒
社会人卒、大卒には1年目からチャンスがあればガンガン活躍して欲しいという期待があるが滲み出ています。6人のうち高卒はたったの1人です。球団側は育てるというよりも戦力になるかを優先して獲得したとみていいでしょう。
2024年シーズンの展望
2023年シーズンは主力選手の活躍も目立ちAクラス入りを果たしましたが、クライマックスシリーズ初戦で敗退しました。さらに投手陣は抜けることになり、チームとしてはかなりの痛手になりました。チームの本当の強さはチームの主力選手が欠けたときに現れると言いますが、まさに2024年シーズンはベイスターズの真の強さが試されるでしょう。
まとめ
今回はベイスターズファンに向けた球団紹介のコンテンツでした。この記事をきっかけにベイスターズの歴史や今のチーム状況を知ってもらうきっかけになればと思います。今回の内容をまとめると
・ベイスターズは元々山口県下関市に拠点を置いていた。
・今ではプロ野球界を牽引するIT球団に成長
・日本一を達成したのは1960年が最後
・ベイスターズが誇る歴代選手は
1、大魔神佐々木こと佐々木主浩
2、ハマの番長こと三浦大輔
3、地元に2億円を投資して球場を建設した筒香嘉智
・ハマスタの雰囲気は独特かつ凄まじく青い熱気に包み込まれている
・現在のチームで課題になるのは投手力
優勝から遠ざかって今か今かと優勝を待ち望んでいるファンは大勢います。ここ数年でAクラス入りが当たり前となり、主力選手の活躍にチームは勢いがあります。
優勝するのならば再び「マシンガン打線」と呼ばれる打線が復活し守護神の覚醒が起こること間違いなしです!
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