メジャーリーグでは毎年4月15日に監督から選手まで背番号「42」をつけて試合をするのはご存知でしょうか?
映画で放映された『42〜世界を変えた男〜』は実話を元にしています。
歴史的背景を振り返りながら、主人公「ジャッキー・ロビンソン」とは一体何者なのかについてご紹介します。
これを見た後に映画を観るとより感慨深い映画となりますのでぜひ最後までご覧ください。
映画のあらすじ
人種差別が横行していた1947年のアメリカで、ある球団がメジャーリーグ初となる黒人選手:ジャッキー・ロビンソンと契約します。
背番号42の彼は、周囲から苛烈な差別や避難を受けるが、野球に対する姿勢は次第に人の心を動かし歴史を変え、今もなお受け継がれる物語がありました。
その裏に隠されていた鳥肌の立つような苦悩と活躍を描いた伝記映画。
この映画は全て実話をもとに作成され忠実に当時の黒人差別社会を再現されています。
ジャッキー・ロビンソンとは何者?
今では毎日のようにメジャーリーグの情報に触れられる時代でプロ野球にとどまらず、メジャーファンも多くなってきたのではないでしょうか?
日本ではあまり記憶に浸透していないと思いますが、メジャーリーグでは、4月15日に全球団・監督・コーチ・選手が背番号「42」をつけてプレーする恒例行事があります。
また、背番号「42」はメジャー全球団で永久欠番となっています。
その昔メジャーで背番号をつけていたのが今回ご紹介するジャッキー・ロビンソンです。
ジャッキー・ロビンソンがなぜ、全米でそれほどの影響を与えたのはメジャーリーグ初の黒人選手だからです。
今ではどの球団にも黒人選手は在籍していますが、1930年代ごろは野球とは『白人のスポーツ』だったのです。
そんな風潮から今にも引き継がれる功績を残した選手です。
ジャッキー・ロビンソンがメジャー選手になるまで
前置きが長くなりましたが、ジャッキーとはどんな人物なのかを紹介します。
- 1919年にジョージア州で誕生
- 生後6ヶ月で父親がいなくなり、カルフォニアに移住
- カルフォルニアは当時白人郊外住宅で生活はやっとのこと
母親1人の稼いだお金だけでは生活困難で生活保護を受けてなんとか生活していた。
幼いジャッキーは荒れてしまい道を外し、近所の不良と絡むようになり、警察にお世話になるようになりました。
しかし、近所の保護者の説得もあり、スポーツの道に志すことを決めます。
兄:マシューさんは1936年のベルリン五輪で200m走銀メダルを獲得しその影響を受けてフットボール・バスケットボール・野球・陸上を始めます。
高校進学をするときには奨学金を受け取るまでの実力が備わっていました。
大学に進学するも、ジャッキーは黒人が仕事を就くのに学問は役に立たないと思い退学します。
その後は軍で兵士として生活を送った。第二次世界大戦後にはアフリカ系アメリカ人で構成される「ニグロリーグ」でプレーをします。
軍上がりでも実力は健在でチーム最高打率を含む好成績を残しました。
ニグロリーグ時代からひどい黒人差別を受けていて、黒人という理由だけでホテルは泊まれず、移動バスで寝泊まりする中で野球をしていました。
ジャッキーは環境に屈することなく奮闘を見せ続け、ある1人の男がスカウトをします。
映画でも登場するブルックリン・ドジャース:現ロサンジェルス・ドジャース会長のブランチ・リッキーさんです。
ドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルに入団する時に2人の中である誓いを立てます。
それは『何があってもやり返さない』ことでした。これは映画の中でも誓いを立てるシーンが登場します。
モントリオール時代
ジャッキーがモントリオールに入団し、迎えたデビュー戦で観客からは罵声を浴び、皮肉られ「黒猫」を投げられたりチームに黒人がいるという理由で試合が中止になることもありました。
観客、敵だけではなく、味方であるチームメイトでさえからも差別を受けていました。
それでもジャッキーは孤独感を感じながらもグランドで勇敢にプレーを続けました。
デビュー戦はリーグ1位の打率と打点を記録します。
ジャッキーはチームリーグ優勝に大きく貢献しました。
プレーオフでは優勝に導く活躍をしました。
優勝後、観客の中からジャッキーを抱きしめたり、肩を担ぎ上げたりするファンが現れるようになりました。
ジャッキーは差別に立ち向かいながらも挑戦を続け結果を残し徐々に周囲からの信頼を勝ち得ていったのです。
ドジャース入団〜続く酷い差別〜
モントリオールでの優秀な活躍もあり、翌年にはドジャースへ入団し、ジャッキーがついにメジャーを果たします。
モントリオールで周囲に信頼を勝ち得ていったもののメジャー選手になっても黒人差別を受けます。
他球団からは「入団させるべきではない」と反対の声が寄せられ、ジャッキーがチームに加入することを知ったドジャースの選手の中には「ジャッキーを受け入れるならプレーはしない」と嘆願書を作りサインする選手も多くいました。
しかし監督は嘆願書を受け取らず選手を夜中に呼び出しこう言ったのです。
「選手の肌の色が黄色であろうと黒であろうと構わない。優秀な選手であれば使う。もし、反対する者がいたらチームを去れ。」
記念すべき4月15日
そしてジャッキーは背番号「42』を背負い4月15日黒人選手初となるメジャーリーグの舞台に立ちます。
メジャーで4月15日に背番号『42』をつけてプレーする理由それはジャッキーの記念すべきメジャーデビュー日だからです。
その功績を讃えメジャーでは毎年の恒例行事にしているのです。
この日の観客2万4千人のうち、1万4千人もの観客がジャッキーを観に来た黒人だったそうだ。
グランド上で行われる黒人差別
しかし、記念すべきメジャーデビューもつかの間、ジャッキーに試練が降りかかってきます。
デビュー1ヶ月後のフィリーズ戦では敵地グランドでの試合というのもありスタンド、相手ベンチから激しい罵声を浴びます。
しかし、ジャッキーは他の人では耐えることのできない今にも精神が崩壊するような状況でもジャッキーはグランドで一切感情的にならずグッと堪えれてプレーをしていました。
映画ではベンチ裏で感情的になるシーンが映し出されます。
そんなジャッキーの奮闘する姿をみて力となったのがチームメイトでした。
ベンチでジャッキーの肩を組み「野次なんて気にするな」と声をかけたり
観客に「お前ら吠えたければ吠えろ。俺たちはここに野球をしにきているんだ。」と言いました。
映画でも監督が野次を飛ばしたり、チームメイトがベンチからでて警告をしに行くシーンが出ます。
反抗のできない立場の弱い者をいじめる描写が鮮明に描かれておりジャッキーがどれだけの苦悩をグランドで味わっていたのかがわかるシーンでした。
大粒の涙を流したジャッキー
チームメイトの支えもあり、ジャッキーはデビューから更なる活躍で新人王に輝きます。
この年プレーオフにも出場しその時スタンドである1人の白人の男の子がジャッキーに「大きくなったらジャッキー・ロビンソンのような素晴らしい野球選手になりたい。」と言いました。
今まで、差別や暴力を振るわれても人前で一度も泣いたことのないジャッキーがこの言葉を聞いて大粒の涙を流したのだった。
メジャー成績と功績
メジャーデビューしてからジャッキーの活躍は更なる進化を遂げていきます。
- 6年連続打率3割超え
- 6年連続オールスター出場
- 8年目には球団史上初のワールドチャンピオン
ワールドチャンピオンになった翌年シーズン後に引退を表明。自らの野球人生にピリオドを打ちます。
- メジャー通算10年
- 1382試合に出場
- 打率.311
- 本塁打137本
- 打点734
と素晴らしい成績を収めたのです。当時のジャッキーのプレーがこちら↓
成績以上の功績をジャッキーは世界に残したのではないかと思います。その後、野球殿堂入りを果たします。
2年後にはドジャースが背番号『42』を永久欠番に指定。1997年メジャー全球団が永久欠番に指定したのです。
映画の感想
これだけの偉大な成績と功績を残したジャッキーロビンソン。
日本人では経験したことない差別や偏見に立ち向かう姿はとても勇敢です。
おそらくこの映画を見るまで多くの野球ファンがジャッキーの存在に気づいてはいないでしょう。
グランド上では誰もが平等が当たり前ではなかった時代に彼は歴史を変えた『1人目』。
どれだけ理不尽なことをされても言い返さない、やり返さない姿は感情を動かします。
大人になると結局がんばっても「人は変わらない」と思い諦めてしまいます。
そんなことを覚えてしまっている方、覚えてしまいそうになっている方はこの映画を観てハッとさせれるそんな映画になっています。
まとめ
ジャッキーの功績を残すまでの数々の苦悩を知った上で映画を観ていただけるとますます尊敬する人物になるでしょう。
今、苦悩や困難に立ち向かっている人がいたとしたら、ジャッキーのように勇敢に立ち向かい次はあなたが歴史を変える人になりましょう。
最後にジャッキーの名言を紹介して締めます。
不可能の反対語は可能ではない。挑戦だ。
コメント